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大阪市立高校体罰問題 [impressions]

たまたま『ミヤネ屋』という番組を見ていたら、番組のコメンテーターが大阪市立高校体罰自殺問題について橋下市長批判を展開していた。
「学校問題を政治的アピールに利用している」と言うコメンテーターまでいた。

様々な視点で検証するのは結構なことだが、今回の橋下市長の行動は、市長として当然の仕事をこなしているだけなのだ。
市立高校がルール無視し、教師による暴行事件を隠蔽し続け、結果的に優秀な生徒の自殺を招いた。
これは完全に不祥事である。
市立高校が不祥事を起こし、生徒を死なせたので、市長が遺族に謝罪に行く。
これは当たり前のことだ。
不祥事を起こした市立高校の責任所在を明確にし、処分するに当たって市長が積極的に指揮をとり、判断を下していくというのも当然のことだろう。

早急に問題高校の構造を見直すにあたって、新入生を迎え入れる体制が不可能であれば、入試を見送るのは当然の判断である。

当然の雛形である、ということだ。

これまでの日本において、そのような当然の雛形が無視され続けてきた結果として、今回の橋下市長の行動が、一部の周囲には暴走に見えたのだろう。

ただ、国民の多くは今回の橋下市長の判断を「妥当な判断」として理解しているのではないだろうか。

戦争と平和 [impressions]

今日は広島平和記念日である。

映画『2001年宇宙の旅』の通奏低音でもある”人類の進化”。

人類は道具を使い始め、両手を自由にする為に2足歩行を行い、安定した2足歩行は脳を発達させる。
だがそれは、敵を殺害する、という極めて男性的なイメージに起因する。
そして道具(武器)を発展させることで独自の進化を遂げた人類は戦争を繰り返し、
科学者によって”核”が生み出された。

そういった意味において”ヒロシマ”は人類史上の、一つの頂点ともいえる出来事であった。

『2001年宇宙の旅』の続編である映画『2010』は、私にとって観るに耐えない駄作だが、
その物語となる「新たな人類の進化」、それはまさに人類による”核の廃絶”である。

今日、2010年の広島平和記念日は、核保有国である米英仏の主要人物が初めて列席するという、
”核廃絶”を強く訴える歴史的な記念日となった。

これが偶然なのかどうかは分からないが、この事実が、
「新たな人類の進化」であることを祈るばかりだ。




80年代校内暴力〈沈静化〉の側面 [impressions]



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多様性 [impressions]

視覚性の多様性を認めるように、
人間の多様性を認めなければならない。
遺伝子が人間のある部分を決定づけていようがいまいが、
ある考えが擁護されようが批判されようが、
多様性を排除することは赦されない。

弁証法的に社会性を視る必要がある。
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複雑な簡略化 [impressions]

映画『Waking Life』で、イーサン・ホーク演じるジェシーが言っていた台詞。
「科学やアートの重要な規範が世界で同時に発生する。
誰かが何かを考えつくと、世界中で大勢が同時に同じことを考えつく」
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4年程前に宇宙船の内部のような映像を幻視した。
同じような映像は度々出現した。
幻視の映像は通常3〜4秒で記憶からも消去される。
完全に忘れる前にとっさにクロッキーでドローイングを何枚か残したが、
当然ディテールが描ききれない。
その映像を再現する為にはCGが向いているのだが、
今ひとつ制作意欲が湧かずにいた。
(CGオペレーターがいてくれればと思った)

予想通り世界中から似たような映像が発生しだした。
ステンシルを多用しキャンバスに描かれたものや、
グラフィティ・アートや、CGアニメーション...
どれも確信的な映像である。
最近でいえば『アバター』の冒頭あたりの、宇宙船内部の映像...

...まぁ、ホンの一例ではあるが、そのような「世界同時発生」は起こり得る。
人類の太古から受け継ぐ記憶と密接に関連しているのかどうかは分らないが...
(記憶には未来も含まれる)

「先を越された」とか「出し抜かれた」とか、消沈したりはしない。
むしろそれらは消費された方が都合が良い。
通俗化されれば表現領域は拡大できる。
もっとも有難いのはシンボリックに簡略化出来ることだ。
気の遠くなるような作業工程を回避できる。
あるいは何か別のものと融合させることも可能だろう。

...簡略化。
普遍性を生み出すひとつのキーワード。
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校内暴力 [impressions]


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80年代校内暴力の側面 [impressions]

80年代初めに多発した校内暴力の要因の一つに
「徹底された管理教育」があると考えられる。
校内暴力は、児童・生徒の人権が無視された、
威圧的(暴力的)教育姿勢に反発して全国的に連鎖したのだ。

管理教育の背景には、高度経済成長期の
「理想的な労働者を作り出し団結力を高め、生産性を上げる」という政策も影響し、
そうした管理教育方針のもとに職権乱用して、行き過ぎる体罰を行った多くの教師達にも
問題があったのではないだろうか。

当時そうした威圧的(暴力的)教師が多かった原因としては、彼らもまた、
そういった管理教育のもとに指導されてきた(虐待を受けた者、或いは目撃した者は
虐待を行うという"暴力の連鎖")という構図も考えられる。

教師と生徒の間に、
刑務所の刑務官と受刑者との間に起こるような人間関係が生まれ、
エスカレートしていったのかも知れない。
学校は刑務所と化し、教師たちは刑務官にでもなったかのように、
生徒たちを支配的に管理するようになったのだ。

当時、竹刀を手にした教師の姿は珍しくなく、そういった教師による、
生徒への威圧や体罰、或いは言葉による屈辱的な暴力(酷い場合は苛め)は
日常の出来事であり、行き過ぎた管理教育が生んだ「歪んだ一面」であった。

教育の場に教師たちが竹刀などを持ち込んだ結果、
生徒達に潜在的に「暴力」を植え付けた。
(竹刀などの"武器"は暴力の象徴、暴力の直感的記号となりうる)

傷つけられた生徒から見ると、教師達は憎むべき"敵"となったのである。

何か問題が起きたとき、学校側はよく「生徒の家庭環境に問題があった」と回答する。
確かに子育てを放棄した親、或いは子供に無関心な親(特に父親)が居ることも事実であり、
傷ついた生徒の心は家庭ではケアされる事がなく、同年代の友人間でのみ解消され、
ますます親と子供の距離が離れる、といったケースは珍しくない。
だがその前に、学校で起こった出来事によって生徒の心が傷つけられる場合が多く、
「教師の体罰によって傷つけられた」という事実が存在するという事であり、
そういった事実は当然のように学校側によって揉み消されたのである。

やがて生徒達は社会を敵に回し、組織化され、互いの非行の度合いを競い合った。
そこへ暴力団が介入して、暴走族はますます巨大化していった。
運転免許を持たない中学生ですら"歩く暴走族"となって凶悪化していった。
当時の日本では、暴力の見本となるものは"暴力団"、或いは"暴走族"であった。
非行少年に「なぜ暴力団と付き合うのか?」と質問すると、
「自分たちの話を親身になって聞いてくれるから」との回答が多かった。
不思議な話だが、暴力団が彼らの"癒し"になったのである。
当時それほど、彼らにとって世の中は荒んでいたのだ。
彼らにとって世の中とは"学校"である。
結果、80年代前半、校内暴力は深刻な社会問題にまで発展していった。

全国的な校内暴力を沈静化させたのは事実上、教育者達ではなく警察であり、
同時に若者文化の変化によって沈静化されたのである。
いわゆる、「ぶっ壊しちまえ!」という野蛮なムーブメントが終わったのだ。
その結果「ヤンキー」は時代遅れに追い込まれ、その数が一気に激減し、
その影響で校内暴力は沈静化へと向かったのである。

ところが未だに、そういった側面には目を向けず、校内暴力が沈静化したのは
「徹底した管理教育による生徒への押さえつけが功を奏した」という
教育委員会側の見方があるが、それは都合の良い一方的な意見
(学校という場に多い、隠ぺい体質的性質)である。
事実、「徹底した管理教育による生徒への押さえつけ」は
校内暴力が多発する以前の方が酷く、そういった管理体制は
校内暴力によって崩壊されたのである。

なのに「校内暴力が沈静化したのは徹底した管理教育による
生徒への押さえつけである」との結論づけが残ってしまった為に、
教師による生徒への卑劣な体罰が完全に無くなる事はなかった。

教師による執拗な苛めが原因で自殺した生徒が存在する、という事実。
(私の友人もその一人だ)
教師による生徒へのセクハラ、強制猥せつ、強姦、傷害・致傷。
こんな事が絶対にあってはならないし、
あったとしても学校側が事件を隠ぺいするなど、もってのほかである。
これらの事件の「本質的な恐ろしさ」や「根本的な原因」というものを
未だにこの国は理解していないように感じてならない。

少年による残虐事件の加害者が過去に
「学校で教師に酷い体罰を受けていた」という話もよく耳にする。
極端ないい方をすれば、そういった少年犯罪者を生み出した暴力教師は、
その事件の共犯者である、と言っても過言ではないのだ。


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自己の不在 [impressions]

「○○さんがそう言ったから...」
「○○さんは××の凄い人だから...」

そんな短絡的な日本人が多いのは事実である。
自分の考えを持たずに、著名な他者の言葉を引用して自分の考えとする行為。

先日、爆笑問題の太田光が日本テレビの番組で
9.11同時多発テロの時の小泉首相の発言『テロには屈しない』について熱く語っていた。
ブッシュの言葉をそのまま引用して日本国の声明とした小泉首相の行為を批判したのだ。
あの番組での太田光の発言は全てに同調できるものではないが、
あながち間違っているとも云えない。
確かに、先ほども書いたが日本人にはそんな風に著名な他者
(一般的に成功していると云われている人)の言葉を簡単に受け入れて
引用する人が多いように思う。
小泉首相が『テロには屈しない』という発言をしたのが
短絡的にブッシュの言葉を引用しただけとは思わないが
その行為が日本人を代表する象徴的行為として歴史に残ったことに対する
太田光の危機感というものはよく分かる。

ソネットブログひとつとって見てもわかるマイノリティの重要性。
(いや、ブログの中の世界は未だに特殊な世界なのかも知れない)

考えて自分の中で昇華するのではなく、
単純な思い込みだけで溢れ出た言葉を自分の中から放出させるという
本当の自己が不在してるという矛盾を抱えた自己顕示欲なのである。
それはまさに公害に等しい。
そしてその醜さに気付かない者が多いのだ。

「奈良美智さんがそう言ったから...」
「村上隆さんがそう言ったから...」
「岡本太郎さんがそう言ったから...」

だから何? 君は誰?


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ダ・ヴィンチ・コード [impressions]

私はまだ「ダ・ヴィンチ・コード」を読んでいない。
確かに面白い物語なのかも知れないが、おそらく読む事は無いだろうと思う。
何と言うか、初めから興味が無かった。
だから映画も見ていない。
わざわざ映画館で見ようとも思わないのだ。

宗教的な理由で拒否反応を起こしているというワケではない。
そもそも私は無宗教である。

それよりも興味深いのは、
日本テレビ、フジテレビ、テレビ東京がそれぞれ2時間のスペシャル番組を制作し、
日本国民にレオナルドの「ラスト・サパー」の解釈を
潜在的に植え付けてしまった事である。


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綺麗な気持ち [impressions]

高校生のときバンドを組んでライブ活動をしていた。
キング・クリムゾンやジミ・ヘンドリックスなどの曲をプレイし
大半は即興演奏だったのだが
一部の音楽ファンからは評価されていた。
高校生バンドとしては高い音楽性と演奏技術を持っていたと思う。

だが、ある日メンバーの一人であるKが自宅で自殺した。
私はそれをテレビのニュースで確認した。
変わった自殺の仕方だったので新聞でも大きく取り上げられた。

Kはイジメにあっていたようだった。
それも高校の教師から。
教師といっても教員免許も持っていない人物。
ボクシング部の指導がそいつの本業だ。

Kは高校をやめたかったのだが、彼の親は許さなかった。
それが自殺の原因のひとつとされている。
そんな事は全く知らなかった。

Kが自殺する2日前。
いつものようにライブの後、メンバーと夜通しで酒を飲んでいた。
でもその日は初めて互いについて思っていることを語り合った。
そして理解し合った。
それが何より嬉しかった。
本当の意味で他人とわかり合える事が
こんなに嬉しい事だなんて思ってもいなかった。
私はKと握手しながら、こう言った。
「今日は人生で一番楽しい日かも知れない。
自分が死ぬのならこんな日がいい」
それは、ある映画の中のセリフだった。

結局、私はKの事を何も分かっていなかったのだ。
私は高校をやめて毎日泣いた。

バンドはそのまま活動を続けた。
その1年後
バンドの中で最も才能があるNがショック状態に陥り
5年間精神病院に入院した。
5年間もである。
もともとNは精神分裂気味だったのだが
人知れずエスカレートしていったようだった。
それが表面化し始めた時にNの部屋を訊ねたのだが
部屋の中のありとあらゆる物が
黒いビニールで丁寧に包まれてあった。
彼は神経質で几帳面だった。
そして恥ずかしそうに私に言った。
「盗聴器が仕掛けられてあって、カメラで盗撮している奴が居るんだ」
その意味は分からないが
Nは完全に自分の存在を否定してしまったのかも知れない。

その後、Nを診察した精神科医が言った。
「よくここまで放って置きましたね。
あと1週間遅れていたらショック死していたかも知れない」

私はその後
何度か手首を切ったりしてみたが
今もこうして生きている。

高校生の時、自殺したKの通夜の席で
「死ぬ気になれば何でも出来る」と誰かが言った。
確かにそうだ。
その勇気があるのなら、怖い事なんて何もない。
だが私がその言葉で思い浮かぶのは犯罪しかなかった。
だからそんな言葉に説得力はない。
Kの父親はこう言った。
「壁に行く手を阻まれたとき、3つのタイプの人間に分かれる」
・壁を乗り越える人間
・諦めて自殺する人間
・どうする事も出来ずに気が狂う人間

私の場合はどれにも当てはまらない。
壁と向かい合って生きている。
もう壁があることすら忘れてしまった。

話は変わるが
こういうことを言う奴が最近多い。
「自殺系って好きなんだよね」

誰がつくったのかは知らないが、変な風潮である。

Kの自殺は衝動的なものであると思われる。
自殺を意識したのはもっと以前からだったとしても
彼は常に希望を持っていた筈だ。
彼の自殺の引き金を引いたのは
「死ぬのならこんな日がいい」
と言った私の一言だったのかも知れない。
Kは焼酎を1本飲み干し、泥酔状態で遺書を殴り書きし
そして実行に移した。

Kのような衝動自殺ではなく、
すでに自殺する事しか考えていない人も多いだろう。
そんな人達に言いたい。

世の中に対する「絶望感」は
他人に対する「憎悪」に変化しやすいから気をつけて下さい。

せめて死ぬときくらい
綺麗な気持ちで死にましょう。
  
   
++++++++++++++++++++++++++++++++
「Kの事は忘れていない」という意味も含めて記しておく。


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