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BORDERLINE (1) [BORDERLINE]


    ボーダーライン


 ケイは時計を見て溜息をついた。あたしの人生は時間に追われて終わるんだわ。そして洗い立ての下着を乾かすドライヤーのスイッチを切り、まだ半乾き状態のそれを履いた。思ったよりも濡れていて不快だったが、時間がもったいなかったし、初夏の日差しが自然に乾かしてくれるだろうと思った。
 そんなケイには同じ歳の恋人がいるのだが、恋人以外にも時々会ってファックする男が何人かいて、私もその内の一人だった。


 1995年。初めてケイに出逢った時、私はまだ25歳で、彼女はまだ21歳だった。
 そのときの私はケイに対してあまり興味がなかったように思う。なぜなら私の目に映る美貌な彼女は、彼女を取り巻く男たちからチヤホヤされるあまり、勘違いなつくり笑顔で「イイ女」を演じつつもどこか見窄らしく、同時に、簡単に男と寝る女、という雰囲気も醸し出ていたからだ。
 仕事仲間であるノリオも、そんなケイを見抜いていたようだった。ただ、私とノリオが違うのは、私はいくら美女でも簡単に男と寝る女には興味がなく、ノリオはすぐにでもファックできそうな美女だからこそ、手を出さずにはいられないことだった。
 そして翌日、ノリオとケイは二人揃って私の眼の前に姿を現した。二人がどうなろうと私の知ったことではないのだが、厄介なことに、その日以来毎日のように、ノリオの恋の相談役を演じる羽目になってしまった。ケイには半同棲中の男がいるらしく、ノリオの独占欲と恋心はめらめらと燃え上がり、すっかりケイの虜になってしまったのだった。

 当時、私はクラブDJだったが、レギュラーで契約しているクラブが次々とクローズし、ほぼフリーター状態へ陥っていた。そんなある日、潰れたクラブの常連だったクミに偶然出遇い「おすすめのパブがあるから行こう」と誘われて行った先が、ノリオの経営する小さなパブだった。
 パブに着くと中には客が一人も居なく、ブラックライトの照明だけが店内を蒼く妖しく彩り、というか寒々しく、耳が痛くなるようなノイズと大音量でユーロビートが鳴り響き、カウンター10席程度の店内をより一層狭く感じさせていた。
「おお!。クミ。いらっしゃい」。L字型のバーカウンターの中から男の声がした。男は色黒で鼻髭をはやし、白いTシャツに黒いベースボールキャップを冠っていた。
 クミは立ったまま、腰を屈めカウンターに肘をつき、笑顔で男と話し始めた。私は、クミの腰が前後にブラブラ揺れるのをぼんやり見つめながら、この男に対するクミの入れ込みようを勝手に想像し、恐らく一人で切り盛りしてるであろうパブの中全体をぐるりと見渡した。
 私はこれまで、レギュラーで契約しているクラブが何件も潰れてゆくのを見てきたので、無意識的にクラブ経営における失敗例が体に染み付いており、直感的にこのパブが潰れるのも、時間の問題であることを確信した。
 そこにいる私はこのパブの為にクミが用意した、単なるカモに過ぎない。だが私はそんな被害妄想からくる敵意を剥き出すよりも、むしろ楽しむべきだと判断した。

「ねえ、アキラ君もマリファナとかやるの?」。突然クミが訊いてきた。
「なんだよ、いきなり」。私は驚いて見せた。
「もし今持ってるなら、少しでいいから売ってくれない?」。クミがそう言ったとき、男の目が僅かに輝いた。どうやらこのパブは、潰れる前に警察に摘発されるだろう。そんなパブに金を使うくらいならアジアの難民に募金すべきだ。これは楽しむどころか、これ以上彼らと関わるのは危険かも知れない、と私は思った。
 しかし、そのときの私はどうかしていた。しかも持っていた。それも大麻ではなく覚醒剤を。前日クラブで後輩から貰ったものが財布の中に入っていた。
「金はいいから、3人でここでキメようか」と私は言った。
「えっ?。今、持ってるんすか?」。私が頷くと男は営業時間中にも関わらず、店の入り口の鍵を閉めた。それはいつもの事のようだった。
「でも俺が持っているのはクサじゃなくて、こっちの方なんだ」。私は覚醒剤の結晶が何個か入った、透明で小さなパッケージをかざして見せた。
「すごい!。アキラ君!」。クミが私の腕を掴んで叫んだ。
「大丈夫?。彼女」。私は男に訊いた。
「彼女のことなら、俺が責任持ちます」と男が答えた。
 私はパッケージから覚醒剤の結晶をひとかけらだけ取出し、アルミホイルの上に乗せ、下からライターで炙り、出てくる煙をストローで吸い、他の2人に回した。もともと私は精神障害を引き起こす覚醒剤なんて好きではなかったので、吸った煙を肺に溜め込まず、そのまま吐き出した。男はまだ半分以上残ったアルミホイル上の結晶を、全部一人で吸い尽くした。そしてテキパキと窓を開け、入り口の鍵を開け、私の隣に座り、大きく開いた瞳孔を私に向けた。
「俺、ノリオっていいます」。ノリオは握手を求めてきた。
「俺はアキラ。よろしく」。そういって私は彼と握手した。
 ノリオは完全にハイになって、マシンガンのように喋りだした。自分の車の自慢など、殆どが彼の自慢話ばかりで、私には少々苦痛だった。それでも適当に相槌する共感能力だけは失わなかった。聞くとノリオは私と同年齢らしい。
「俺はDJなんだけど、殆どの店がクローズしたから、ほぼプータローだよ」。私は自作のアンビエント系ミックステープを渡した。ノリオはそれを受け取ると、暴力的なBPMで流れるユーロビートのCDを止めて私のテープをかけた。音楽のBPMが一気に下がって私はホッとした。
「ユーロビートがメインなの?」。私はノリオに訊いた。
「そんなことないよ。何でも聴く。一応聴く耳は持ってるつもりだよ」
「こういうジャンルはあまり聴かない?」
「嫌いじゃないよ」とノリオは答えた。
「アキラ君、あたしにもテープ作って。っていうかアキラ君、ここでDJやれば?」。おもむろにクミがそう言った。
「ほらぁ。クミちゃんが変なこと言うから、ノリオ君、困っちゃったよ」と私は言った。
「まぁ、アキラ君みたいなDJが居てくれたら超楽しいとは思うけどね。でも儲かってないからさぁ。ご覧のとおり」とノリオは照れ笑いした。それ以前に私にその気がなかった。
「アキラ君がDJするなら毎日通うよ」とクミが言った。俺が居なくても毎日通いたいんだろう、と私は言いたかった。
 でもこのパブはそこそこ大きな音を出しても平気そうだし、暇つぶしにはなりそうだ。それに家で悶々とミックスを考えるよりは、少しは客観的にもなれるだろうと思った。
 ノリオは私のドラッグのコネクションをあてにして、何とか私との関係を繋いでおきたい、と考えているだろう。残念ながら私にそんなコネは無いのだが。
「俺は別に構わないよ。機材はこっちで用意できるし、ギャラもあるとき払いでいい」。私は冗談半分にそう言ってみせた。
「本気で!?」とノリオが言った。
「アキラ君が来るなら、あたし毎日通う」

 覚醒剤がそれほど効いていない私は酒を飲み、3人でくだらない話をし、ノリオは「久々にスピードをキメたから、少し早めに店閉まいする」と言い、私は飲み代を払おうとしたが、ノリオは「いらない」と言った。
「クミ。お前一人で帰れるか?」とノリオが訊いた。クミは落胆して、
「帰れるわよ。子供じゃあるまいし」と答えた。
「気をつけろよ。普通の状態じゃないんだから」とノリオは言った。
「大丈夫だって!しつこいわね」
「俺が送ってくよ」と私は言った。
「じゃあ悪いけど、アキラ君にお願いする。クミ、今日はアリガトな」。そう言ってノリオはそそくさと消えていった。
 クミは時折振り返ってノリオの姿を目で追い、完全に視界から消えたのを確認すると、
「ねぇアキラ君。二人で、もっとキメない?」と甘えた声を出した。
「冗談でしょ!?」と私は言った。
「だって全然やった気しなくない?。殆どあの男が吸っちゃったし...」
 私は一瞬自己撞着して、「しょうがないなぁ。絶対内緒だぞ」と言った。
「アキラ君とあたしの二人だけの秘密!」。そう言ってクミは笑った。

 私たちは近くのラブホテルに入った。人生は興趣が尽きない。そんな自分もまだ何処かにいる。
 クミはもともとモデルだったが、今はホステスをしながら生計を立てている、スレンダーで見栄えのする女だった。
「俺は殆ど、S(覚醒剤)はやらないし、自分では絶対に買わない事に決めている。これも知人からたまたま貰ったんだ」
「大丈夫よ。アキラ君。この事は絶対に誰にも言わないから。安心して」。そう言うとクミは覚醒剤の煙を吸った。
「ノリオ君とは長いの?」。私はクミに尋ねた。
「知り合って1年くらいかな?。あ、あたし達、別に付合ってるわけじゃないから。ノリオには同棲してる彼女がいるし...」
 私はそんなクミをぼんやりと見ながら、こんな夜に一人で居るのは、確かに辛いだろうな、と少しだけクミに同情した。
 当然私達は一睡もせずに、ホテルをチェックアウトした後も二人で公園へ行き、水以外何も口にせず、狂った時間の感覚に身をまかせ、夜まで二人で語り合った。

 三日後、ノリオから電話が来た。
「この前はどうも。突然電話して何だけど、エス持ってたら少し分けて欲しいと思ってさ」。それは地獄の底から聞こえて来るような声だった。
「ゴメン、今切らしてるんだ」。私は退屈していたので言ってみた。「そうそう、この前の話なんだけど、今夜機材持って行けるから、今夜からプレイできるよ」
 そうして私はそのパブのDJになった。

 当然、カウンターメインの小さなパブにDJという不自然さを克服するためには、店の雰囲気やコンセプトを変えなければならなかった。
 私達はパブの中全体を、クラブのバーコーナーに見立て、狭い店内で窮屈な圧迫感が出ないよう、ブラックライトに光る蛍光塗料で、壁にリアルな地球や星を描いた。訪れた客が、月面にポツンと置かれたバーカウンターで飲んでいるような気分を誘う、小物なども配置した。
 シンプルでスッキリとした爽快感が味わえるように、他の照明の強さと色も配慮した。
 そして音楽が人を包み込むように、天から降り注ぐスカッとした高音と、腹に響くような迫力のある重低音の大音量の中で、会話が苦痛なく出来るようにボーカル帯域を絞り、長時間音楽を聴いていても音疲れしないよう、チューニングを施した。かといって、やはり会話をするためにはそれなりに声を出さなければならず、多少大きな声を出すのは客のテンションを上げることにも繋がると考え、非日常的テンションを引き出すパブ、というのも売りにしていこうと考えた。
 パブの入っているビルのすぐ近くには、大箱のクラブもあり、フリーのクラバー達が気軽に流れ込めるように、料金も比較的安めに設定し直した。
 出来上がったパブは私にとっても居心地が良くなり、客足も増え、少しずつ活気を出し始めた。旨く回転させる為には選曲も重要になり、充分私の向上心もかき立てられた。
 そしてケイがパブに現れたのは、それから間もなくのことだった。

     ◆続きを読む◆


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