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BORDERLINE (7) [BORDERLINE]

    ◆1話目から読む◆

 朝になって明らかに私達の間に一つの歪んだものが生まれた。
 目が覚めると小雨が降っていた。私とケイは朦朧とした意識の中でもう一度ファックして、チェックアウトの時間ぎりぎりまで寝ていた。私はタクシーを呼び、ケイを家まで送ることにしたのだが、ケイが送ってほしいと言った場所は以前から半同棲生活を送っていたという、その男の住むアパートだった。
 私達は車の中では殆ど無言でいたのだが、ケイは時々一人で思い出し笑いをしては私の太ももを叩いた。
 男のアパートに着くとケイは「彼を見せてあげる」と言って車から降りた。そしてアパートの1階にある一室の窓をトントンとノックすると、中から男が窓を開けて姿を現し、ケイがその男に自分のバックを手渡すと、男はケイのバッグを受け取り、私の方を見る事もなく部屋の中へ引っ込んでしまった。その姿はまるで影の薄い自分自身を見ているかのようだった。
「俺は何をやっているんだろう?」と私は声に出して言った。
 ケイは一瞬淋しそうな顔を見せたが、壁に手をかけてフラフラと立ったまま片方のブーツを脱ぎ、それを窓の中へ放り投げ、窓枠へ飛び乗って腰をかけ、もう片方のブーツを脱いだ。そして私に手を振ってそのまま窓の中へ入っていった。
 私は苦しまなければならないのだ。アサコを死なせてしまった報いとして、一生苦しまなければならないのだ。そう思った。そう考えるのが一番楽だった。
 
 ケイの男のアパートでの光景が心の奥深くに残り、ずっと頭から離れずにいた私は、毎日のように覚醒剤を使用していた。透明な結晶を粉にして、千円札をくるくる丸めて作ったストローで鼻から吸引する事もあれば、水に溶かして注射器で直接血管に打ち込む事もあった。なぜなら私は自分の中にある壊れやすいもの全てを粉々に壊してしまいたかったから。そうすれば私は自分に相応しい野蛮人になることが出来る。そういう人間になってしまえば楽だろうし、もしかしたら偶然、本当に楽しく生きられるキッカケが掴めるかも知れない、とも思った。でも結果として私の中の繊細で壊れやすいものたちは、醜い執着心や猜疑心に変化して増殖し、誇大化していくだけだった。
 私はその頃はまだDJをしていたのだが、もはや私のことを正常な人間として扱う者は誰一人として居ないような気がしていた。私の目に映る人間は全て、私を敵対視しているような気がしていたのだ。だから、客の殆ど居ない時間帯だけは、冷たく澄み切ったディープな世界を、完璧なミックスで表現する事が出来るのだが、客が多くなると頭の中がメチャクチャになった。
 流行っている曲ばかりをかけてフロアを盛り上げよう、などという短絡的なDJスタイルではなく、あくまでも、その瞬間にだけしか出来ない選曲の中で、その一曲に意味を持たせる、というのが私のプレイスタイルの基本だった。
 けれどそれ以前に、もはや私には客を引っ張るだけのパワーが無く、テンションも低く、そして何よりも他人に対する共感能力を失っていた。

 そんなある日、ケイは男の部屋から電話してきて「淋しいから会いたい」と言ってきた。私は、今忙しい、と言ってそんなケイを冷たくあしらった。その1時間後、ケイは一人でクラブに現われて私を見つけ、手を引いてコインロッカーの影に私を連れて行き、いきなり私の唇にキスを押し付けてきた。そして「アキラさん、完璧に目がイッちゃってるね」と言った。それを聞いた私はゾッとして気分が悪くなった。
 DJブースの中で何の目的も無くレコードを回している間、ケイは他の客に混じってベンチに腰を掛け、私のことを見ていた。私はケイと目が合った。そして溜め息を吐いて「もう限界だ」と思った。私は次の順番のDJのところへ行き、体調が悪いので代わってくれ、と頼み、ケイの手を引いてクラブを出た。そして、そのままケイを自分の部屋へ連れて行った。
 部屋へ入るなり、私はケイを押し倒してうつ伏せになり、彼女の胸に顔を埋めた。ケイは震える手で私の頭を撫でていた。私はわけも分からずに涙が溢れ出てきて、彼女の服が私の涙で濡れた。ケイは私の頭を抱きしめた。私はジーパンのポケットからスピードの入ったパッケージを取り出し、ビニールを歯で食いちぎって中身を口の中へ入れ、結晶の固まりを歯で砕き、半分を舌で彼女の口の中へ押し込んだ。そして中指でパッケージに残った覚醒剤の粉をすくい取り、ケイのスカートをまくり上げて下着の中に手を入れ、ヴァギナに覚醒剤の粉を擦り付けるようにしてから、じっとりと濡れてきた彼女の膣の中に中指を入れた。私の中指はケイの体温で包まれ、締めつけられた。
 結局私たちは丸2日間を一緒に過ごした。その間に私たちがした事といえば、ケイが自分の職場に電話して、風邪で熱を出した、と言って嘘をつき、仕事を休みますと告げた事以外、全裸でファックするだけだった。何回ファックしたのかも分からないくらいに何度もファックしたせいで、私の膝はシーツに擦れて真っ赤になって皮がずる剥け、ケイは「トイレへ行く」と言って立ち上がったのだが「あ痛たたた、股が痛い」と言って崩れ落ちた。
 私の部屋は11階建てのマンションの最上階にあったのだが、周りのビルは10階建てが多かったので、窓から見える景色は、何処までも続く灰色のビルの屋上だった。それはまるで、全てを破壊し尽くされた戦場の跡地を思わせた。朝になると、遠くに見える灰色の地平線から、真っ赤に登る孤独な太陽を眺めることが出来た。
 部屋には古くて大きな冷蔵庫と、オーディオ装置と、29インチのテレビがあった。ベッドは無くて、マッドレスだけをこげ茶色のフローリングの床の上に敷いていた。テーブルが無かったのでアルミ製のトランクをテーブル代わりにしていて、窓にはカーテンも無かった。さすがの私も、これではあまりにも殺風景過ぎる、と思ったのだが、カーテンやテーブルを揃えるよりも先に、近所の観葉植物専門店で大きめのパキラを1本買ってきて、窓の近くに置いた。そうする方が私には居心地が良いと思ったからだ。
 まっすぐに伸びたパキラの太い幹は、長さ1メートルくらいの所で平に切られていた。その横から1本だけ細い枝が生えていて、二つに枝分かれし、その先にはそれぞれ5枚ずつの大きな葉がついていて、日の光りに照らされて葉の緑が半透明に透けていた。
 ケイはトイレから戻ってくると、マットレスの上に寝ている私の隣に来て添い寝した。私は彼女に背を向ける形で横になっていた。ケイは私の背中に顔を付けて「あたしこの部屋好きよ。生活感が無いところも。青い空も。何もかも冷たく感じるところも」と言った。
「合鍵を渡しておくから、何時でも好きなときに来なよ」と私は言った。そう言いながら私は、本当にケイのことを好きになってしまったのかも知れない、と思った。彼女の言葉は他の誰よりも私の心に触れていたから。
 私は向き直ってケイを抱きしめた。私の口は声にならずに「好きだよ」という言葉を発した。
 ケイは小さな声で「あたしも好き」と言った。だが、彼女の気持ちがあっという間に通り過ぎてしまう、この風景のように、いつか何処かへ消えてしまうことも、私には分かっていた。

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BORDERLINE (6) [BORDERLINE]

    ◆1話目から読む◆

「こんな話、アキラさんにしか出来ないんだけど聞いてくれる?」
「えっ、何?」
「あたしが中学生の時に両親が離婚したの。父親の暴力が原因で」ケイはグラスをテーブルに置いてタバコに火を点けた。
「父親は警察官なんだけど、あたし、子供の頃から毎日のようにもの凄い虐待を受けてきたの。本当にこのまま死ぬんじゃないか、っていうくらい殴られた事もある。お母さんもよく殴られていた。それも平手じゃなくて握り拳でだよ? 普段から鍛えている警察官が手加減無しで思い切り殴ってくるんだよ?」ケイは握り拳を作って見せた。「普段は優しいし、近所からも評判のいい父親なのに、突然何かに取り憑かれたみたいに豹変するの。それがいつ始まるか分からなくて、内心いつもビクビクしていた。でもそんな風に腫れ物扱いすると余計にエスカレートするから、普通の親子のように甘えてあげるの。本当はもの凄く怖いんだけどね。優しいときのお父さんは好きだから。そうやって甘えていても突然怒りだして殴ってくるの。あたしは顔が鼻血で血だらけになって、お父さんの手があたしの鼻血で真っ赤になってるのに、お父さんはあたしに『ヨシヨシってしてくれ』って言うの。あたしは自分の鼻血で真っ赤になりながら、お父さんの頭を撫でて、ヨシヨシってしていた。まだ小学生の時だよ? いつも辛くて唇を噛み締めてた...。唇に黒いアザがあるでしょ?」ケイは下唇を突き出して見せた。ケイの下唇にはホクロのような黒いアザがあった。「これはホクロじゃないよ。唇を噛み締め続けて出来たアザ。...消えないの」ケイは私を見ながら目を細めた。微かな音量でマイ・ファニー・バレンタインが流れていた。「境界性人格障害って聞いたことある?」
 私は首を横に振った。
「ボーダーラインとも呼ばれる人格障害の一種」ケイは口からタバコの煙をふぅっと吐き出しながら、タバコを灰皿に擦り付けて火を消した。「あたしもそれなんだ」
 もちろん私もその病名を知っていた。だが今はケイの話を聞こうと思った。「病院には通っているの?」私はケイに聞いた。
「高校生の時、一度だけお母さんと一緒に神経科みたいな所へ行った事があるんだけど、自律神経失調症って言われた気がする。それっきり行ってない。効果が無いような気がしたし、それに、そういう所に通っているなんて周りに知られたくもなかったしね。別に普段生活する分には、そこまで支障ないし...」ケイは向き直って私を見た。「この前たまたま本屋さんへ行った時にボーダーラインに関する本があって、読んで見たらあたしにも充分当てはまるの。アキラさん、こんなこと言ったら、引いちゃったでしょう?」
「ううん、そんなことないよ」
「よかった。他の人にはこんな話、なかなか出来ないから」
 私は密かに混乱していた。その時、高校時代に読んだ聖書の言葉が脳裏を過った。

  もし盲人が盲人を手引きすれば、二人とも穴に落ちるであろう

 私はケイを抱き寄せて「もしも朝、日が昇る頃に起きれたら、二人で朝日を見よう。ここから見る朝日は、きっと綺麗だよ」と言った。ケイは黙って頷いた。「今のうちに少し寝とくといいよ。起こしてあげるから」
 
 私は一人でソファに座りながら、何を見るわけでもなく窓の外を見ていた。既に私は自分を失いつつあった。
「アキラさんは寝ないの?」ベッドの中からケイがきいた。
「いや、俺も少し寝る」そう言って私はベッドの中に入った。
 暫く黙って天井を見ていたのだが、私はケイに覆いかぶさった。ケイの心臓がドキドキしているのが伝わった。ケイは目を閉じて、私はケイの唇にキスをした。まるで小学生同士のキスのように、唇が触れ合うだけのキスだった。
 首筋にキスすると、ケイは歯を食いしばってくすぐったいのを我慢していた。私は体に巻いているケイのタオルをゆっくりと外した。前にノリオが言っていた通り、下着は着けていなかった。ケイは私の顔を見ていた。そして乳首を口に含むと微かにケイは声を出した。
「感じる?」と聞くとケイは小さく首を縦に振った。私は舌先でもう一方の乳首を舐めた。ケイは少しだけ大きな声で喘いだ。「恥ずかしくないなら、もっと大きな声を出しても平気だよ」と私は言った。私は完全に偽善者のようになっていた。ケイに少しでも気持ち良くなってもらいたいというよりも、感じているケイの姿を見て私が満足したかったのだ。そして彼女の記憶の奥底に私の姿を残したかったのだ。その時点でケイを愛していたのかどうなのか正直わからない。だから私は彼女を抱くべきではなかったのかもしれない。
 たしかに私とケイとの間には美しい光りがあった。その光りが二人を結びつけた。それは傷付く二人に与えられた明るい未来のように輝いていた。けれど私が彼女を抱いた瞬間、その光りは消えた。そしてもう後戻りすることもできなかった。

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BORDERLINE (5) [BORDERLINE]

    ◆1話目から読む◆

 私とケイはタクシーに乗っている間、殆ど無言だった。そして海沿いのラブホテルに着いた。
「ここ?」。ケイは寝起きの様な視線を私に向けた。
「びっくりした?。嫌なら引き返してもいいよ?。でもここには俺の理想の景色があって、ケイちゃんにも見せてあげたかったんだ。できれば二人でその空間を共有できたらと思って。ただそれだけの事だよ。いつか、誰かとここへ来るといいよ。すみません運転手さん...」。私は引き返すことにした。
「あっ、待って。誰も行かないだなんて言ってないでしょ?。そこへ連れてって」。そう言ってケイが私の腕を掴んだとき、香水の香りがした。
 私は以前ノリオから、ケイはラブホテルが好き、という話を聞いていた。

 実は私は、そのホテルの評判は知っていても、中に入った事は無かった。
 海沿いの崖上にそびえ立つホテルの部屋は割と広く、調度品も上品だった。薄らとオレンジ色に灯る足元灯のあかりが優しく、L字型の大きな窓からは、澄み渡る夜の海に浮かぶ遠くの船のあかりと、ゆったりとした灯台のあかりを眺めることができた。そして微かな音量でジャズのバラードが流れていた。

「綺麗だね。こんな部屋に住みたい。こんな部屋に住んで好きな人のために編み物とかしたい」
 私はアサコが編み物をしていた時の姿を思い出した。もしも今ここに居るのがアサコだったら、まず最初に風呂に入ろうとするだろうな、と思った。
「アキラさん?」。バスルームからケイの声が聞こえて来た。「わたし、お風呂に入りたいんだけど、入ってもいい?」
 ケイは入り口からちょこんと顔を出して、「絶対に覗かないでね」と言った。

 ケイが風呂に入っている間、私は遠くの灯りをぼんやりと見つめていた。もうマリファナの効果は切れかかっていた。私の眼前に広がる光景は、暖かく優しい世界から、寒く冷たく曖昧な世界へ戻ろうとしていた。私にそれを止めることは出来ない。普通の人が当たり前に感じる暖かさや安らぎを、私はマリファナでしか得ることが出来ないのだ。

「何してるのぉ?」。背中越しにケイの声が聞こえた。振り返るとケイはバスタオル1枚だけの姿で頭にタオルを巻いていた。一瞬のうちに私はまた暖かい気持ちになった。まだマリファナが効いていた。
「気持ちよかった?」と私はケイに訊いた。
「うん。アキラさんも入ったら?。気持ちがスッキリするよ」
「そうだね。俺も入ろう」
 窓ガラスに写った私の虚ろな表情を、ケイに見られてないことを祈ると同時に、自己嫌悪へ陥る不安に襲われた。

 勢いよく温水が出るシャワーを浴びていると、まるで真夏の熱帯の、スコールの中に居るような気分が味わえた。そしてバスルームに広がる湯気が心地良く、私の精神状態は急速に安定し始めた。そして鏡の中の自分の全身がとても逞しく、誇らしく思えた。それはまだマリファナが効いていた所為もある。

「ふぅ...。スッキリ」と私は言った。
「でしょぅ?。だからお風呂って大好き」とケイが言った。
 私は冷蔵庫からビールを取り出し、グラスに半分注いでケイに手渡した。ケイは微笑みながら「カンパーイ」と言ってグラスを私に向けた。私は自分のビール缶をケイのグラスに軽く当てて乾杯し、ケイの座るソファーには座らずに、床の上に座った。
「アキラさん。そんなところに座らないで、ここに座んなよ」。そう言ってケイはソファーをパンパンと叩いた。私は立ち上がってケイの隣に座り直した。
「前にも此処に来た事あるんでしょ?。誰と来たのぉ?」。ケイは横目で私を覗き込んだ。
「此処に来たのは初めてだよ」。それを聞いてケイは、フフっと鼻で笑った。

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BORDERLINE (4) [BORDERLINE]

    ◆1話目から読む◆

 ケイと会う約束はしたものの、女の子とお食事、という生々しさが果たして自分という人間に身分相応なのかどうか、私は疑っていた。
 自分を縛る目に見えない鎖から自身を解き放つ為には、国内非合法な解決方法であっても、マリファナでハイにならざるを得なかった。普段から混乱している私にとってのハイとは、ハイテンションではなく、一般的に正常な、平常心に近い状態かも知れない。
 ところで私の中のケイのイメージは、ロングヘアーで、ゆるめの巻き髪で、ミニスカートスーツを着ていて、些細な事で大口を開けて笑う、といった感じだった。

 待ち合わせ場所に現れたケイは、大きくイメージチェンジしていた。髪はバッサリとショートボブにし、エスニックなロングワンピースを着て、恥ずかしそうにふらふらと歩いていた。
 私の目にはそんなケイがどこか華奢に見えて、自分の中のケイのイメージとの差異にも折合いがつかず、テンションが落ちると同時に軽い混乱を覚えた。もしかするとケイは、穴の開いたジーンズにTシャツというグランジな私に合わせてくれたのかも知れない。ただそれだけの事だ。ただそれだけの事実が私を攻撃していた。
「おなか減ってる?」と私はケイに第一声を投げかけた。
 女性の扱いに長けている人であれば、その髪似合ってるね、とか、その服可愛いね、などと褒めてあげたり、俺たちお似合いだね的なジョークも、この場合は許されるのかも知れないし、それ以前に、満面の笑顔で出迎えて、優しくエスコートする事で女性を安心させたり出来るのだろうが、当時の私に、そんな高貴な芸当は全く持ち合わせてなく、それどころか、ケイに対して笑顔すら作る余裕もなかった。
「減ってると言えばぁ、減ってるけど、減ってないと言えばぁ、減ってない」とケイが答えた。
「じゃあ、観たい映画があるんだけど、先に映画を観て、その後ご飯食べに行こうか」。そう言うとケイは私を見て、微笑んで頷いた。
「髪切っちゃったんだね。長い方が良かったのに...」
「ええ?! 。ショック...」

 それでも私は幾分自分を保っていられた。二人を包み込む独特な宇宙へケイを案内している。そんな揺るぎなさがケイを安心させている。そう自分勝手に思い込んでいた。
 映画館の入っているビルのエレベーターを降りて、蛍光灯の薄暗い廊下を暫く歩いていると、降りる階を間違えた事に気付いて、「あれっ?。ここは何処?」と私は言った。ケイは私の腕を叩き、
「ちょっと!」と言って笑った。
「今から映画観るんだって事すら忘れてた!」。私は完全に自失していた。
 そして私たちは『トレイン・スポッティング』という映画を観た。

「この映画はアキラさんと一緒に見るべき映画だったわ」。観終わった後にケイはそう言った。
 12月の繁華街は多くの人で賑わい、普段から早歩きで歩く私から逸れないよう、ケイは私の腕を掴んで歩いていた。私は何故か人ごみに紛れて、犬の散歩をしているような気分だった。

「おお!。アキラ!。元気だったか?」
「はい。なんとか生きてました」
「今お前、何やってんの?」
「今月新しくオープンしたクラブで、またDJやってます」
「そっかぁ。とりあえず良かったなぁ。そういえば今度、ラリー・ハードが来るんだけど、お前、チケット買わない?」
「アキラさん、私も買うから一緒に行こう?」。ケイが話に割って入った。
「アキラの彼女?」。先輩はケイを指差した。
「いや、彼女では...」
「じゃ、チケット出来たら連絡すっから。とりあえず今日はゆっくりしてけよ」。先輩はそう言うと厨房へ戻って行った。
 私たちはビールジョッキを持って乾杯した。
「アキラさん突然ノリオのパブを辞めちゃうんだもん。わたし、本当にどうしようって思ったんだから。何も言わないで辞めちゃうなんて冷たすぎない?」
「ごめん。でも俺なりに色々考えた結果なんだ」。本当のところ旨く答えられる理由なんて無かった。でもケイは理由を訊かずにいてくれた。
「でも嬉しい!。本当にアキラさんよね?。本当にアキラさんなんだよね?」
「ああ俺だよ。こんな風に二人で逢うのは不思議な感じだけど...」
 ケイはホッとした様に笑顔を見せながら俯いた。「本当。あのパブにいた時はノリオが居たから、こんな風に会えるなんて考えられなかったよね。でもいつか、こんな風に会えたらって、いつも思ってた」
 確かにケイは私のことが好きだったのかも知れない。でもケイが本当に好きなのは、あのパブでただのDJとして、殆どの出来事に対して、それどころかケイの存在に対してすらも無関心な私なのであって、今ここにいるような私ではない。
「パブを辞めた後、ケイちゃんのことが気にはなってたんだ。ノリオに殴られたりしてないだろうか、とか...。それで先週、ノリオのパブへ行ってきた。ノリオと別れたんだって?」
「もう大変だったんだから。アキラさんは突然居なくなっちゃうし。私にとってはもうあのパブへ行く理由も無くなった訳だし、ノリオに会う必要も無くなったんだけど、あの男ストーカーみたいにしつこく付き纏うようになって...」そこまで言うとケイは大きく溜息をついた。 「わたし、それから好きな人ができたの。クラブでナンパされてその人と知り合ったんだけど、その時も近くでノリオが私のこと見張ってて、気味悪いっていうよりも怖かった。だからその人に相談したの。そしたらその人がノリオに言ってくれたの。『もう彼女に近づくな』って。『今後彼女に何か話があるなら、代わりに俺が聞くから』って言って、自分の電話番号を紙に書いてノリオに渡してくれたの。それ以来その人のことが凄く好きになって...」
「ノリオは黙ってその紙を受け取ったの?」。私は話しを遮るように訊いた。
「うん。喧嘩しても勝てないと思ったんじゃない?」
「なんだ、そうだったのかぁ。よかったよかった。それ聞いて安心したよ」

 俺はいったい何がしたいんだろう。ケイを守りたいのか?。ケイと寝たいのか?。セックスがしたいのか?
『ケイちゃんのことが気にはなってたんだ。ノリオに殴られたりしてないだろうか、とか...。』って、俺に何が出来るというんだ?。俺に出来る事なんてせいぜい、俺なりに色々考えた結果として、姿を消す事くらいなもんだろう。所詮その程度の男。
 少なくともケイは、勇気あるその男の行動によってノリオの脅威から守られた。それは強烈な経験として彼女の歴史に刻まれた。ケイの中で起こったパラダイムシフトは、彼女にとっての男の存在価値を決定づけた。だからもう以前の様にはいかない。いつかケイは、『男のランク付け』の真ん中から下の方に俺の事を位置づけるだろう。
 そもそも俺たちの関係って何なんだ?

「でも失恋したの。もともとその人には彼女が居て、その事も彼の口から直接聞いてて知ってたんだけど、私は相手の女に負けたくなかったから、必死になって頑張ったの。わたし、人を好きになると全力で尽くすほうだから...」。ケイはビールを飲み干し、更に話し続けた。
「何もかも捨ててその人と一緒になりたいとも思った。生理が3ヶ月遅れた時は本気で子供が出来たと思ったし...、そう思わざるを得ない事もあったしね。その事を彼に言ったら、本気で喜んでくれたのよ?。そして、『結婚しよう』とまで言ってくれたんだよ?」
 ケイの語尾が上がる度に、私は自分の無力さを恥じ、自我の輪郭が歪んだ。
「でも結局、子供なんて出来てなくて、その人、元カノのところへ戻ってしまって、あっという間にそのコと結婚しちゃったぁ...」
「うわぁっ!。それは辛いわぁ」。もはや私は、自分が誰なのかも分からない。
「ねぇ、アキラさん聞いてぇ。わたし、本当に身も心もボロボロになってたんだよ?。あそこまで男に泣かされた事なんて、今まで一度も無かったから。そんな時にアキラさんが来たの。だから、すっごく嬉しかったぁ。本当にアキラさんのことが、スーパーマンみたいに見えたよ」。 ケイはだいぶ酔いが回ってきた様だった。
「これから一緒に行きたい所があるんだけど、よかったら行かない?。でも無理には誘わないから。キツかったら気軽に断ってくれてもいいから」と私は言った。
「ううん、大丈夫。行きたい」とケイは答えた。

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BORDERLINE (3) [BORDERLINE]

    ◆1話目から読む◆

 私は、パブの中でレコードをまわしているとき以外は、努めて明るく振る舞った。
 ケイはパブに来ると、いつも私の近くに座っていたが、前にも増して必要以上に私に気を使うようになった。私がタバコをくわえると必ずライターを差し出してくれたり、わざとらしく客の前で「この店はいつも選曲がいい」と言ってくれたりした。その度に私は、このパブのマスターであるノリオの女として、殆ど無償で働いている私の為に、ノリオに変わって気を配ってくれているのだと思うようにしていた。
「ケイちゃん、俺なんかに気を使わなくてもいいんだよ」と私は言った。
「わたし、アキラさんには全然気を使ってない。ただ、アキラさんといると幸せな気持ちになれるの」。ケイはそう言うと頬笑んだ。「それに、アキラさんって、頭の回転がものすごく速そう。ノリオさんなんか、ほとんど、アキラさんの手の平の上で転がされているみたい」
 その声の大きさからいって、間違いなくそれはノリオの耳にも届いており、明らかにノリオの顔色が一瞬変わったが、聞こえない振りをしたように見えた。聞き間違いだと思って気にしなかったのか、あるいは初めからケイにそう言うように自ら仕向けていたのか、私には判断がつかなかった。
 私はとりあえずケイに微笑んで見せた。ケイは私に頬笑み返した。
 次の日、ノリオは上機嫌に開店準備をしながら得意げに私に語った。「女って奴はたまにはビシッと怒んなきゃダメだね。昨日あんまりケイが調子こくもんだから、軽く殴ってやったんだよ。そんで、俺達もう終わりだな、って言ったら、なんて言ったと思う?。『いや、これで始まったんだと思うよ』だってさ。その後一発ヤって仲良く寝たよ」
 人間は馬鹿な方が幸せなんだろうなと思いつつも、「女を殴るのは良くないよ」と言っておいた。
「いいや。やっぱり甘やかしちゃダメだね」と自信満々にノリオが言い、今のこの男に何を言っても無駄だろう、と諦めた。
 ケイはその夜、普段と変わらず何事も無かった様にパブに来た。
 世間は給料日前の平日ということもあり、人通りは疎らで、店は暇だった。
 ノリオは「知り合いのパブのオープン日に顔出せなかったから、今のうちに行って挨拶してくるけど、もし客が来たら携帯に電話くれれば、すぐに戻ってくるから」と言ってケイを連れて行こうとした。
 ケイは「行きたくない」と言い放った。
「しょうがねぇなぁ」と言ってノリオは一人で店を出ていった。
 私とケイは初めて二人きりになった。私は何故か、借りてきた猫みたいになった。こういうシチュエーションは苦手だった。理由は分からないが、妙な自意識に襲われていた。
「私がこのパブに来るのは、アキラさんが居るからなんだよ」とケイが言った。
「そう言ってくれるのはケイちゃんだけだよ」。私はケイに翻弄されてはいけない、と警戒した。
「アキラさんに会える事が、一番の楽しみ。あの男一人のパブなら、来ない」
「よく分からないけど、ノリオとはうまくいっているんでしょ?」
「アイツ、昨日、私のこと殴ったのよ!。髪の毛掴まれて、さんざん引きずり回されて、わたし、本気で殺されるかと思った」。ケイは瞬きせずに私を見つめながら、そう言った。
「喧嘩したっていうのはノリオからも聞いてるよ。でも仲直りしたんでしょ?」
「あの男が何て言ったのかは知らないけど、その後も無理矢理されて、わたし、枕を濡らしながら寝たんだから。こんなことが許されると思う?」
 ケイは私との会話に慣れたのか、私の持ってる本来の人見知り体質を見抜いたのか、表情が劇的に柔らかくなり、明らかに人格が変貌した。声のトーンも少し低くなり、若干早口になった。私はそんなケイを見ているうちに息が詰まって苦しくなり、涙が溢れ出て止まらなくなった。
「アキラさん、どうしたの?。大丈夫?」
「大丈夫。ちょっと咽せただけ」。そのとき初めて気付いたのだが、ケイはアサコの雰囲気に似ていた。ケイの顔にアサコの面影が重なり、アサコを生き返えらせた。「それよりここだけの話、ケイちゃんはどうしたいの?」。私は精一杯力を振り絞って声に出した。
「わかんない。あんな男のことなんかどうでもいいけど、もしも別れたら、この店でこんな風にアキラさんに逢えなくなるから、その為なら我慢できる気もするし...」
 私はひどく混乱していた。「俺はもしかして今まで、ケイちゃんのことを誤解していたかも知れない。俺の所為で今まで何か不快な思いをさせたなら、ごめん」
「ううん。そんなこと一度も無かったよ」
「ところで、ケイちゃんにはノリオの他にも彼氏がいた筈だけど、その彼とはまだ続いてるんだよね?」私がそう訊くとケイは俯いた。「あ、ごめん。俺には関係ない話しだね」
 ケイは向き直って私を見ながら、「そんな『関係ない』だなんて言わないで」と言うと再び俯いた。「彼みたいな人は他にいない。どんな事があっても、いつも冷静で動じないし、私のことを自由に泳がせてくれるし、いつも何処か遠くで見守ってくれているような気がして安心するの。だから彼とは別れられない」
「俺にはよく理解できない」と私は言った。そして暫く沈黙が続いた。
「最近怖いの。ノリオが。いつか本当に殺されるんじゃないかって...。でも今はこのパブでアキラさんに逢うのが一番の幸せ。だからここを辞めないでね」

 1時間後にノリオが戻ってきた。ノリオは友人から車を借りてきたらしく、「アキラ君、今日は暇だから、ちょっと早いけど閉めようか。車で家まで送ってあげるよ」と言い、ケイに一人で先に家へ行くよう告げた。
「わたしも一緒に行く」とケイは言ったが、ノリオが借りてきた車は2シーターだった。
「やっぱり俺は歩いて帰るよ」と私は言った。
「大丈夫、うまく乗れば3人乗れるよ」。ノリオはそう言うと助手席のリクライニングシートを倒した。
 私は外から見えないように、寝そべるように低い体勢で助手席に座り、ケイは私の上に座った。私はなるべく彼女の体に手が触れないよう、自分の腕をシートの後方へ回していたのだが、背面騎乗位の体勢だけは避けられなかった。
「勃起してきた」と私は冗談を言った。
「ケイごときで勃起してるようじゃダメだなぁ」とノリオは言った。
 ところが暫くして本当に勃起してしまった。ケイは何事も無いように座っていた。ノリオは運転しながら一人で喋っていたが、私たちは殆ど無言だった。

 その後、私は色々考えた末、少しずつノリオから距離を置き、パブを辞めた。
     
      
 そして1年後、ノリオのパブを訪ねた。店の雰囲気は大分変わっていた。入り口の扉にはカッティングシートで大きく『DJ's BAR』と貼られてあって、激しくダサかった。中に入ると、ノリオが一人でレコードを回していた。客は誰も居なかった。ノリオは、私が辞めた後に学生DJをノーギャラで雇い、自らもレコードを回していると話してくれたが、スピーカーから出ている音は窮屈で耳障りだった。そして以前と比べて弱々しく見えるノリオが言った。
「オレ、ケイとは別れたんだ。もう一度ブスからやり直すよ」
 私は適当に相槌を打ち、一杯だけ飲み、代金を払って店を出た。

 アサコが死んで以来、私の心が晴れることはなかった。
 他人との間に障壁があるというか、病的なフィルターに感覚が浸食されているというか、いつも混乱していた。いつしか私は夜を好むようになった。夜は私の気を楽にさせ、活動し易かった。

 ノリオのパブを訪ねた次の日、私はケイの勤めるデパートへ行った。
 ケイは私を見ると一瞬驚いたが、すぐに笑顔を作って見せてくれた。
「うれしい!。どうしたの?。もうアキラさんには会えないかと思ってた」。私は素直に、そんな彼女のリアクションが嬉しかった。
「どうしてるのかと思って...。気になったから...。よかったら今度一緒に晩飯でも...」
「またそんな社交辞令言っちゃって。電話番号も知らないくせに」
 昼間みるケイは私の想像以上に輝いていた。そんな中私は、デパートの化粧品売り場という場違いな眩しさに目がくらみ、ぼんやりとした目眩に襲われていた。
「明後日なら大丈夫だから、必ず電話してね」。ケイは小声で頼み込むように電話番号を書いたメモを差し出した。
 さんざん迷ったあげく、二日後、私はケイに電話した。
「アキラさん、ありがとう。もしもアキラさんから電話が来なかったらどうしよう...、ってこの二日間、そんな事ばかり考えてた」
 そして私達は待ち合わせ場所を決めて、夜に会うことにした。

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BORDERLINE (2) [BORDERLINE]

    ◆1話目から読む◆

 以前私がDJをしていたクラブのバーテンから電話があり、「ケイって名前の女にパブのことを教えておいたんで、今夜あたり行くと思うからよろしく」と言われた。
 その夜、ケイは会社の同僚と3人でパブに来た。それがケイとの初めての出会いだった。
「綺麗なバーですね」。ケイは初めからテンションが高かった。
 美貌な3人は大手の化粧品会社で美容部員をしているとのことだったが、彼女らの口からは平然と卑猥な言葉や汚い言葉が飛び交っていた。中でもケイはリーダー的存在だった。
 ノリオはすぐにケイに魅かれた様子だった。私はパブの片隅で黙々とレコードをかけていた。
「これ、俺が撮った写真なんだけど、よかったら観てくれない?」。そう言ってノリオはたくさんの写真をケイに手渡した。
「すごい!。綺麗!。カメラマンなの?。こんな綺麗な写真、初めて観た」
 ノリオは得意げにケイの隣に座った。写真の内容を知っていた私は、写真の雰囲気に合わせて選曲し、ノンストップで曲を繋いだ。
 フォトジェニックな風景写真とチルアウト系音楽に包まれた彼女らは、きっと居心地が良かったに違いない。気が付くと既に夜中の3時を回っていた。
「アキラ君もこっちに来て一緒に飲もうよ」。ノリオは私を呼び寄せた。私は意外なギャグをカマして、意外にもウケた。
「ごめんなさい。初めはチョット怖いっていうか、危ない人だと思ってたの。ただひたすら黙々とレコードをかけてるし。でも凄く面白い人だったんだね」。ケイは笑いながらそう言った。
「こんな時間まで飲んでて、明日は仕事大丈夫なの?」とノリオが訊いた。ケイは、
「明日は3人とも休みなの」と答えた。
「じゃあさぁ、今からみんなで俺ん家行って、軽く飲み直そうよ。すぐ近くだから」
 家に着くとノリオはマリファナを紙に巻いて、2本のジョイントを作り、5人で回して吸った。
 暫くするとマリファナが効き、スローモーションの様にゆったりとした時間が流れ始めた。
 ノリオはケイの隣にベッタリと張り付き、飽きもせずに自分の写真を見せていた。それが彼のいつもの手口なのだろう、と私は思った。私は他の女の子2人を相手にバカ話を連発し、3人で転げ回り、腹が千切れるほど大笑いし合っていた。気が付くとノリオとケイは別の部屋へ移動していた。
 私は異常にハイテンションでありつつも、反面どこか冷静だった。
「さてと、俺はそろそろ帰るとするかな」と私が言うと、女の子の一人が、
「ケイ!。あたし達もう帰るよ!」と叫んだ。
 ノリオと二人で別の部屋に居るケイは、「ごめん!。まだ居たいから、あれだったら先に帰ってもいいよ」と言い放ち、私達はケイを置いて帰った。
 
 その日以来ケイは、ほぼ毎日、パブに姿を現した。開店時間から閉店時間まで居て、そのまま一緒にノリオの家に泊まる日もあれば、閉店前に飲み代を払って、半同棲中の男の家へ帰ってゆく日もあった。そしてそんな夜はいつも、ノリオの恋の相談相手をしなければならなかった。
 聞くとノリオは同棲していた女とはきっちり別れ、その事をケイに告げたにも関わらず、ケイの気持ちは一向にハッキリしないという、例のごとく私にとってはどうでも良い話だった。
「でもさぁ、アキラ君、聞いてよ。ケイの方も一応、男に俺のことを話したらしいんだけど、相手の男は『誰と何をしても構わないから、自分とは別れないでくれ』って言っているらしいんだ。信じられる?。自分の女が他の男と寝ても構わないなんて」

 いつも私はパブの中で黙々とレコードをかけていたので、あまりケイと話す機会は無かった。いや、たとえDJをしていなかったにせよ、距離を置いたように思う。何となく彼女とは相性が悪い気がしていたからだ。けれどいい加減、ノリオの恋の相談役に辟易していた私は、思い切ってケイと向き合うことにした。
「ケイちゃんのもう一人の彼って、どんな人なの?」。私は出来る限り友好的に訊いた。
 ケイは少し俯いてから慎重に答えた。「たぶんアキラさんとも友達になれるような人だよ」
「それはどうだろう。俺はもともと体育会系だし、弱っちい奴は苦手なんだ。あ、別にケイちゃんの彼が弱っちいって意味じゃないよ」
「そう言われてみたらあの人、体育会系ではないみたい」
 私は面倒になって、回りくどい事をやめた。「全くもって俺には関係のない話だと思うけど、ノリオも毎日悩んでいるみたいなんだ。ケイちゃんの気持ち次第でどうにでもなると思うけど、このままズルズルっていうのは、少なくとも二人の男を傷つける結果になるんじゃないのかなぁ」
 ケイは不適な笑顔を浮かべて言った。「アキラさん、あたし胸が痛い。胸がすごく痛い」

 別に誰が傷つこうが私の知った事ではないのだが、その日以来、私がケイに興味を持ったのは確かである。かといって、何一つ状況が変わる訳でもなかった。ただその日以来ケイはパブに来ると、必ず私の近くに座るようになった。いつしか私はノリオの恋の相談役が、それほど苦痛でもなくなっていた。
 そしてその夜も二人だけになってしまったパブの中で、例のごとく、ノリオはケイの話を始めた。
「意外とケイは男慣れしてないのかも知れないよ?」
 私のケイに対する興味に牽制球を投げるように、ノリオは初めてケイとのセックスを打ち明けた。
「最初は割と軽い女だと思ったのに、何か違うんだよ。初エッチの時も二人でホテルへ行ったんだけど、風呂から上がってきたケイは、タオル一枚だけ体に巻いて俺の隣りに座ったんだ。コイツ、絶対ヤリマンだと思って、いざヤってみると何ていうか、セックスに慣れてないっていうか、処女を抱いてるみたいな感じなんだ」
 そんな話しを聞かされた私は胸が苦しくなった。
 ノリオはアイスペールに氷を入れて、ウイスキーのボトルと氷の入ったロックグラスを二つ並べた。私はグラスにウイスキーを注ぎ、今日の労をねぎらう意味で乾杯した。ノリオは一気にそれを飲み干した。「でもケイ、オッパイが小さいんだよ。足も思ったより太いしさぁ...」
「でも顔はかわいいんじゃない?」。私は期待に応えてそう言って差し上げた。
「ちょっとチヤホヤされるからって、調子に乗ってチョロチョロしなければいいんだけど。煽てるとすぐに調子に乗るから」。ノリオは誇らしげだった。結局は自慢したいのだ。「でもケイといると飯はおごってくれるし、ここの飲み代もキチンと払ってくれるし、そういう意味じゃ助かってるよ」
 俺には二人が何をしてどうなろうと無関係だ。そう思いつつノリオに微笑んで見せた。
 電話のベルが鳴ってノリオが出た。「おおクミか。久しぶりだな。全然来ないから心配してたよ。えっ?。今から?。マジで?。わかった、待ってる」
 ノリオが電話している間、私は以前交際していたアサコという女のことを思い出していた。
 私達はまるで、互いの傷口を舐め合う兄弟の子猫のように、必要とし合い、励まし合い、何よりも二人の時間を大切にした。そんな風に私を必要としてくれる人は、後にも先にもアサコだけだった。
   
    
 20歳で学生のアサコと、一歳年下で駆け出しのDJだった私は、同じマンションの住人で、お互い一人暮らしだった。知り合って間もなく私達は恋に落ち、私はアサコの部屋に入り浸った。
 当時はまだ携帯電話がなかったので、アサコの親から電話が来た時に、アサコが不在がちだと、何かと不都合だった。私達は彼女の親には内緒で付き合っていた。私とは違い、裕福な家庭で厳格に育てられたアサコは、二人が付き合っていることがバレると実家へ連れ戻される、と言って慎重に振る舞っていた。
 私達は人として自然に理解し合い、飾り合うこともなく、素直な自分達でいられた。
 その分よく喧嘩もしたが、それは互いをもっと深く理解し合いたかったからで、喧嘩してもすぐに仲直りできた。 けれど私達の喧嘩は日に日にエスカレートし、言葉巧みなアサコの攻撃に私が敵うわけがなく、ある夜、私は怒って彼女の部屋を飛び出した。私には彼女の暴走を止める為の言葉が用意できなくて、そうするしかなかったのだ。もちろんすぐに戻るつもりだったので、二時間くらい熱りを冷ましてから彼女の部屋へ戻ってみたのだが、テーブルの上に、涙でインクの文字が滲んだような手紙が置いてあって、彼女の姿は無かった。

 あんな風にアキラが出て行ってから、もう何もする気になれません。
 私にとってアキラは、ただひとりの、ひとりだけの人なの。
 今さらもう遅すぎるかしら...
 でもアキラを探しに行きます。

 手紙にはそう書かれてあった。
 直ぐさま私はアサコを探しに走り回ったが、何処にも見つからなかった。度々部屋へ戻ったりもしてみたが、彼女は居なくて、待っていても何故か彼女が帰って来る気がしなかった。そして再び外へ飛び出し、一晩中探し回った。

 次の日の朝、彼女は遺体で発見された。ビルから飛び降りたらしい。
 警察によると、彼女の服は泥にまみれ、ボロボロに引き千切られていて、股間からは男の体液が検出されたとの事だった。アサコは夜中に何者かにレイプされ、その後投身自殺したのだと判断していた。
 アサコは処女だった。アサコは幼少時代に両親のセックスを目撃した事がトラウマとなり、ペニスを拒絶していた。

 私は自分の中の〈なにか〉が音も無く壊れていくのを感じた。まるで、体内の細胞すべてが蒸発してしまったかのよう様な皮膚感覚に支配され、眼の前の現実の光景が曖昧になった。


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 ケイは時計を見て溜息をついた。あたしの人生は時間に追われて終わるんだわ。そして洗い立ての下着を乾かすドライヤーのスイッチを切り、まだ半乾き状態のそれを履いた。思ったよりも濡れていて不快だったが、時間がもったいなかったし、初夏の日差しが自然に乾かしてくれるだろうと思った。
 そんなケイには同じ歳の恋人がいるのだが、恋人以外にも時々会ってファックする男が何人かいて、私もその内の一人だった。


 1995年。初めてケイに出逢った時、私はまだ25歳で、彼女はまだ21歳だった。
 そのときの私はケイに対してあまり興味がなかったように思う。なぜなら私の目に映る美貌な彼女は、彼女を取り巻く男たちからチヤホヤされるあまり、勘違いなつくり笑顔で「イイ女」を演じつつもどこか見窄らしく、同時に、簡単に男と寝る女、という雰囲気も醸し出ていたからだ。
 仕事仲間であるノリオも、そんなケイを見抜いていたようだった。ただ、私とノリオが違うのは、私はいくら美女でも簡単に男と寝る女には興味がなく、ノリオはすぐにでもファックできそうな美女だからこそ、手を出さずにはいられないことだった。
 そして翌日、ノリオとケイは二人揃って私の眼の前に姿を現した。二人がどうなろうと私の知ったことではないのだが、厄介なことに、その日以来毎日のように、ノリオの恋の相談役を演じる羽目になってしまった。ケイには半同棲中の男がいるらしく、ノリオの独占欲と恋心はめらめらと燃え上がり、すっかりケイの虜になってしまったのだった。

 当時、私はクラブDJだったが、レギュラーで契約しているクラブが次々とクローズし、ほぼフリーター状態へ陥っていた。そんなある日、潰れたクラブの常連だったクミに偶然出遇い「おすすめのパブがあるから行こう」と誘われて行った先が、ノリオの経営する小さなパブだった。
 パブに着くと中には客が一人も居なく、ブラックライトの照明だけが店内を蒼く妖しく彩り、というか寒々しく、耳が痛くなるようなノイズと大音量でユーロビートが鳴り響き、カウンター10席程度の店内をより一層狭く感じさせていた。
「おお!。クミ。いらっしゃい」。L字型のバーカウンターの中から男の声がした。男は色黒で鼻髭をはやし、白いTシャツに黒いベースボールキャップを冠っていた。
 クミは立ったまま、腰を屈めカウンターに肘をつき、笑顔で男と話し始めた。私は、クミの腰が前後にブラブラ揺れるのをぼんやり見つめながら、この男に対するクミの入れ込みようを勝手に想像し、恐らく一人で切り盛りしてるであろうパブの中全体をぐるりと見渡した。
 私はこれまで、レギュラーで契約しているクラブが何件も潰れてゆくのを見てきたので、無意識的にクラブ経営における失敗例が体に染み付いており、直感的にこのパブが潰れるのも、時間の問題であることを確信した。
 そこにいる私はこのパブの為にクミが用意した、単なるカモに過ぎない。だが私はそんな被害妄想からくる敵意を剥き出すよりも、むしろ楽しむべきだと判断した。

「ねえ、アキラ君もマリファナとかやるの?」。突然クミが訊いてきた。
「なんだよ、いきなり」。私は驚いて見せた。
「もし今持ってるなら、少しでいいから売ってくれない?」。クミがそう言ったとき、男の目が僅かに輝いた。どうやらこのパブは、潰れる前に警察に摘発されるだろう。そんなパブに金を使うくらいならアジアの難民に募金すべきだ。これは楽しむどころか、これ以上彼らと関わるのは危険かも知れない、と私は思った。
 しかし、そのときの私はどうかしていた。しかも持っていた。それも大麻ではなく覚醒剤を。前日クラブで後輩から貰ったものが財布の中に入っていた。
「金はいいから、3人でここでキメようか」と私は言った。
「えっ?。今、持ってるんすか?」。私が頷くと男は営業時間中にも関わらず、店の入り口の鍵を閉めた。それはいつもの事のようだった。
「でも俺が持っているのはクサじゃなくて、こっちの方なんだ」。私は覚醒剤の結晶が何個か入った、透明で小さなパッケージをかざして見せた。
「すごい!。アキラ君!」。クミが私の腕を掴んで叫んだ。
「大丈夫?。彼女」。私は男に訊いた。
「彼女のことなら、俺が責任持ちます」と男が答えた。
 私はパッケージから覚醒剤の結晶をひとかけらだけ取出し、アルミホイルの上に乗せ、下からライターで炙り、出てくる煙をストローで吸い、他の2人に回した。もともと私は精神障害を引き起こす覚醒剤なんて好きではなかったので、吸った煙を肺に溜め込まず、そのまま吐き出した。男はまだ半分以上残ったアルミホイル上の結晶を、全部一人で吸い尽くした。そしてテキパキと窓を開け、入り口の鍵を開け、私の隣に座り、大きく開いた瞳孔を私に向けた。
「俺、ノリオっていいます」。ノリオは握手を求めてきた。
「俺はアキラ。よろしく」。そういって私は彼と握手した。
 ノリオは完全にハイになって、マシンガンのように喋りだした。自分の車の自慢など、殆どが彼の自慢話ばかりで、私には少々苦痛だった。それでも適当に相槌する共感能力だけは失わなかった。聞くとノリオは私と同年齢らしい。
「俺はDJなんだけど、殆どの店がクローズしたから、ほぼプータローだよ」。私は自作のアンビエント系ミックステープを渡した。ノリオはそれを受け取ると、暴力的なBPMで流れるユーロビートのCDを止めて私のテープをかけた。音楽のBPMが一気に下がって私はホッとした。
「ユーロビートがメインなの?」。私はノリオに訊いた。
「そんなことないよ。何でも聴く。一応聴く耳は持ってるつもりだよ」
「こういうジャンルはあまり聴かない?」
「嫌いじゃないよ」とノリオは答えた。
「アキラ君、あたしにもテープ作って。っていうかアキラ君、ここでDJやれば?」。おもむろにクミがそう言った。
「ほらぁ。クミちゃんが変なこと言うから、ノリオ君、困っちゃったよ」と私は言った。
「まぁ、アキラ君みたいなDJが居てくれたら超楽しいとは思うけどね。でも儲かってないからさぁ。ご覧のとおり」とノリオは照れ笑いした。それ以前に私にその気がなかった。
「アキラ君がDJするなら毎日通うよ」とクミが言った。俺が居なくても毎日通いたいんだろう、と私は言いたかった。
 でもこのパブはそこそこ大きな音を出しても平気そうだし、暇つぶしにはなりそうだ。それに家で悶々とミックスを考えるよりは、少しは客観的にもなれるだろうと思った。
 ノリオは私のドラッグのコネクションをあてにして、何とか私との関係を繋いでおきたい、と考えているだろう。残念ながら私にそんなコネは無いのだが。
「俺は別に構わないよ。機材はこっちで用意できるし、ギャラもあるとき払いでいい」。私は冗談半分にそう言ってみせた。
「本気で!?」とノリオが言った。
「アキラ君が来るなら、あたし毎日通う」

 覚醒剤がそれほど効いていない私は酒を飲み、3人でくだらない話をし、ノリオは「久々にスピードをキメたから、少し早めに店閉まいする」と言い、私は飲み代を払おうとしたが、ノリオは「いらない」と言った。
「クミ。お前一人で帰れるか?」とノリオが訊いた。クミは落胆して、
「帰れるわよ。子供じゃあるまいし」と答えた。
「気をつけろよ。普通の状態じゃないんだから」とノリオは言った。
「大丈夫だって!しつこいわね」
「俺が送ってくよ」と私は言った。
「じゃあ悪いけど、アキラ君にお願いする。クミ、今日はアリガトな」。そう言ってノリオはそそくさと消えていった。
 クミは時折振り返ってノリオの姿を目で追い、完全に視界から消えたのを確認すると、
「ねぇアキラ君。二人で、もっとキメない?」と甘えた声を出した。
「冗談でしょ!?」と私は言った。
「だって全然やった気しなくない?。殆どあの男が吸っちゃったし...」
 私は一瞬自己撞着して、「しょうがないなぁ。絶対内緒だぞ」と言った。
「アキラ君とあたしの二人だけの秘密!」。そう言ってクミは笑った。

 私たちは近くのラブホテルに入った。人生は興趣が尽きない。そんな自分もまだ何処かにいる。
 クミはもともとモデルだったが、今はホステスをしながら生計を立てている、スレンダーで見栄えのする女だった。
「俺は殆ど、S(覚醒剤)はやらないし、自分では絶対に買わない事に決めている。これも知人からたまたま貰ったんだ」
「大丈夫よ。アキラ君。この事は絶対に誰にも言わないから。安心して」。そう言うとクミは覚醒剤の煙を吸った。
「ノリオ君とは長いの?」。私はクミに尋ねた。
「知り合って1年くらいかな?。あ、あたし達、別に付合ってるわけじゃないから。ノリオには同棲してる彼女がいるし...」
 私はそんなクミをぼんやりと見ながら、こんな夜に一人で居るのは、確かに辛いだろうな、と少しだけクミに同情した。
 当然私達は一睡もせずに、ホテルをチェックアウトした後も二人で公園へ行き、水以外何も口にせず、狂った時間の感覚に身をまかせ、夜まで二人で語り合った。

 三日後、ノリオから電話が来た。
「この前はどうも。突然電話して何だけど、エス持ってたら少し分けて欲しいと思ってさ」。それは地獄の底から聞こえて来るような声だった。
「ゴメン、今切らしてるんだ」。私は退屈していたので言ってみた。「そうそう、この前の話なんだけど、今夜機材持って行けるから、今夜からプレイできるよ」
 そうして私はそのパブのDJになった。

 当然、カウンターメインの小さなパブにDJという不自然さを克服するためには、店の雰囲気やコンセプトを変えなければならなかった。
 私達はパブの中全体を、クラブのバーコーナーに見立て、狭い店内で窮屈な圧迫感が出ないよう、ブラックライトに光る蛍光塗料で、壁にリアルな地球や星を描いた。訪れた客が、月面にポツンと置かれたバーカウンターで飲んでいるような気分を誘う、小物なども配置した。
 シンプルでスッキリとした爽快感が味わえるように、他の照明の強さと色も配慮した。
 そして音楽が人を包み込むように、天から降り注ぐスカッとした高音と、腹に響くような迫力のある重低音の大音量の中で、会話が苦痛なく出来るようにボーカル帯域を絞り、長時間音楽を聴いていても音疲れしないよう、チューニングを施した。かといって、やはり会話をするためにはそれなりに声を出さなければならず、多少大きな声を出すのは客のテンションを上げることにも繋がると考え、非日常的テンションを引き出すパブ、というのも売りにしていこうと考えた。
 パブの入っているビルのすぐ近くには、大箱のクラブもあり、フリーのクラバー達が気軽に流れ込めるように、料金も比較的安めに設定し直した。
 出来上がったパブは私にとっても居心地が良くなり、客足も増え、少しずつ活気を出し始めた。旨く回転させる為には選曲も重要になり、充分私の向上心もかき立てられた。
 そしてケイがパブに現れたのは、それから間もなくのことだった。

     ◆続きを読む◆


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