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自我の脱中心 #2 [reflections]

客観視については以前触れたように、
対象の客体(特定の他者)の価値観(世界)を最重要視することである。


(客観的に見るということは、
広く普遍的な道徳や真理にもとづいて自己や物事を見極めるということであり、
この場合の客観視とは分けて考えるものとする)


対象の客体(他者)とは、
自己が認識している他者、あるいは自己の中で想像しうる他者のことであり、
当然、自己にとって他者とは曖昧な存在である。
したがって客観視とは、
曖昧な他者の価値観を最重要視するという、曖昧な行為に他ならない。




近年でも現代アートにおいて、
鑑賞者(他者)に付けられたCCDカメラの映像(視線)を通して
擬似的に客観視を体験する試みも行われているが、
連続した客観視という視覚的な体験によって得られる『主体の脱中心』を
体現的に表象させる為の表現方法であるとも考えられる。


「主体の脱中心」をくり返すことにより、
自己の限界が突破され、視野(シェア)が広がり、自我を超越することもある。






「超越的自我による客観視」


客観視とは本来、対象の客体(他者)があって成り立つが
それゆえに客観視自体は曖昧な行為であり、常に不可能性がつきまとう。
ところが客観視が可能性を持つ瞬間があり、それが自己の超越である。


自己を超越する瞬間(あるいは超越した直後)、
主体は現在という同一の時間軸の中で「古い主体」と「新しい主体」に分裂する。
それは精神病的な分裂ではない。精神の進化である。
例えば、自己を超越した瞬間に鏡を見たとする。
鏡を見ている「新しい主体」が、鏡に写し出された「古い主体」を見極める。
古い主体」からみると、まさにそれは「客観視」である。
その結果、古い主体新しい主体によって消滅する。






「薬物による自我の超越と依存」


薬物を使用することで脳内物質が強制的に分泌され、精神高揚が起こり、
実体験として自我を超越する場合がある。
しかしこの場合、「新しい主体」は薬物の効果が切れる時間とともに消滅し、
古い主体」へと逆戻りする。
そして再び「新しい主体」を手に入れようとして薬物に依存する結果となり、
絶えず同じ「古い主体」と同じ「新しい主体」がくり返され、精神分裂症を引き起こす。


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自我の脱中心 [reflections]

【自己中心的自我】


主体の世界(価値観)が最重要視されていて、客体は常に主体の世界に配置される。
したがって他者は、自己の中で完結される。
そのため自己中心的人間の多くは客観視することができずに、
主体と客体との間に存在する「自己(もしくは他者)」の認識にズレが生じ、
不和が生まれることもある。






【客観視】


対象の客体の世界(価値観)を最重要視する。(自己の消滅。脱中心)
その世界に、それまでの自己(主体)を再配置する。
客体を通して主体を見極める。(主体そのものを疑う)
客体の世界の中に、新たな自己の必然性が生まれる。
その結果、他者と自己との間に主体と客体の境界線が消え、調和した波長が生まれる。
ところが主体は完全に無くなることはなく、客体の世界の中心に居ようとする自我が生まれる。
その瞬間、主体は中心へと逆戻りし、客体は主体の世界に再配置される。
(客観視に関する上記の文はどこかで読んだ本からなのか、自分の言葉なのか、
もう記憶が定かではない。
もしもこの文と同じ内容のものがどこかの本の中にあるのであればご指摘頂きたい)


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reflections #2 [reflections]

私はおおよそ「自分が一番正しい」と思っている。
しかし、そうした私はおおよそ間違っている。

そして
「自分が正しいと信じて生きる」という、
その言葉を漠然と信じて生きている。

おおよそ私は自尊心を守る為に、
綺麗ごとを並べようとする。

「自分は間違っているかも知れない」と思うことに
いちいち勇気がいるのだ。

「世界を変えたい」という口先だけの偽善者。
自分が変われば、自分の世界は違って見える。

「自分は間違っている」と思えるようになったら、
その日から世界は変わるだろう。


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reflections #1 [reflections]




「自我を越える瞬間」というものがある。
だが、そこまで自力で辿り着くのは決して容易いことではない。
何故なら人間には多かれ少なかれ羞恥心というものがあるからだ。
そいつはいくら捨ててもまた自分のもとへ戻ってくる。
捨てても捨てても戻ってくるのだ。
そしていつもそいつに抑圧され、縛られ、痛めつけられる。
   
「自我を越える」ということは、「何かを達成する」ということではない。
どちらかというと「何かを失う」ことなのだ。
ある意味でそれは「死」である。
混じりけの無い「無」を発見することである。
   
「自我を越えたとき」人間は強い幸福感に包まれる。
それまで拒絶していた自分にとって「悪」である者の存在すら受け入れて
全てを理解したいと思うのである。
そして同時に建設的な志向をもたない「ただの変人」
(自己の中に存在するものも含めて)を排除する。
そういうことが出来る審美的な能力に気付く。
   
まずは抑圧から解放されることである。
そうすれば「欲望とは自分にとって軽いもの」であることを知る筈だ。



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