WEBページ公開について [diary]
アクリル/キャンバス(40cm×40cm)×2
試験的にWEBページを公開してみました。
現在は、http://www.maroon.dti.ne.jp/oxima/に設置しています。
WEBサーバーの準備が整い次第、http://www.oxima.netへ移行する予定です。
移行完了後、ご報告致します。
(当ブログはこのまま継続します)
今後とも宜しくお願い致します。
※なお、サイト上の画像の著作権は著作者に帰属します。私的利用を逸脱した利用、無断での転用・転載はお断り致します。
2010-04-12 [diary]
イデオロギー研究の文脈では、言説分析を専門とするカナダの歴史家のマルク・アンジュノ(en:Marc Angenot)が、20世紀の政治イデオロギーやアイデンティティ・ポリティクス、ナショナリズムを論じる際に、ルサンチマン概念を取り上げている。アンジュノもまたルサンチマンとは、不満の蓄積を特徴とする態度であると考えている。ルサンチマンに基づく主意主義の増殖は今日ではとりわけポストモダニズムや独善的主張の横行、組織防衛的な考え方の拡大にみられ、様々な形態の差別や社会的対立を煽っている。アンジュノによれば、過去について反省したり将来について希望を抱き続けることは、たとえわれわれの目から見て安定性や魅力が(ヴァルター・ベンヤミンがアウラの消失と呼ぶような仕方で)消え失せている仕方であるように見えても、ルサンチマンがもつ反動的な影響から身を守るための最善の方法である。(ウィキペディアより)
2010-04-02 [diary]
上の絵は、つい先程、30分くらいで描き上げたものです。
4年前にこのような映像を幻視したのですが、
その時とっさにスケッチしたものをもとに再現しました。
もともと明解な映像なので、構図も含めて再現率は高いと思います。
(かといっても証明のしようがありません)
なぜ今になって描いたのかというと、
(ストラヴィンスキー風に言及すれば)”後継者たちの共通性”を断片的に表象していて、
この絵の導入には相応しいと判断したからです。
(ちょっと大げさで、しかも非常に伝わり辛いですね。いいんです。わからなくて...)
共通性という部分でいえばヴェルナー・パントンのテキスタイル・デザインにもそれは見られます。
私の場合は、オートマティスムを利用し、根底にはアンフォルメル的概念があり、
源流はシュルレアリスムですが、それはほとんど技法についての話です。
ここから私の、他者のような自己との戦いが始まります。
私は全力で勝利を目指しますが、同時に負けることも期待しています。
私が生きている限り、それが止むことなく続いてゆくべきだからです。
意外なカタルシス [diary]
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フロイト曰く、
「不快な夢を見た朝、ある種の精神病に犯された状態に陥る」
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そんな不快な朝を迎えることもあるだろう。
だが、そのような病的な状態は、長くは続かない。
放っとけば時間とともに回復する。
そんな夢を見たことすら忘れるだろう。
何故そのような夢を見たのか、この際どうでもよい。
あえて、そのような短時間な鬱的状態の時だからこそ、
出来る事に着目したい。
それは自力で「カタルシスを得る」ということ。
「放っとけば回復する」前に挑むのだ。
口で言うは易し、行動するは難し、ではある。
何しろ鬱状態というものは、ほぼ何も手につかないのが常だからである。
もしも、アナタがそのような状態へ落ちてしまったとき、
ネット環境があるなら、
普段絶対見ないであろう人のブログを見るとかも有効だ。
...例えば、ガッツ石松さんのブログとか。
フロイト曰く、
「不快な夢を見た朝、ある種の精神病に犯された状態に陥る」
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そんな不快な朝を迎えることもあるだろう。
だが、そのような病的な状態は、長くは続かない。
放っとけば時間とともに回復する。
そんな夢を見たことすら忘れるだろう。
何故そのような夢を見たのか、この際どうでもよい。
あえて、そのような短時間な鬱的状態の時だからこそ、
出来る事に着目したい。
それは自力で「カタルシスを得る」ということ。
「放っとけば回復する」前に挑むのだ。
口で言うは易し、行動するは難し、ではある。
何しろ鬱状態というものは、ほぼ何も手につかないのが常だからである。
もしも、アナタがそのような状態へ落ちてしまったとき、
ネット環境があるなら、
普段絶対見ないであろう人のブログを見るとかも有効だ。
...例えば、ガッツ石松さんのブログとか。
ぼんやり凝視 [diary]
少し酔っている。酒を飲むのは久しぶりだ。
絵を描く上で苦痛なのは「描かなければならない」という脅迫観念。
「線を引かなければならない」と思って引いた線は、大抵良くない。
芸術は溢れ出る感情だ。
絵を描く作業は、発掘作業に似ている。
「そこにあるもの」を発掘するのだ。
凝視しただけでは気付かない。
ぼんやり見ただけでは表現できない。
その中間にある。
「ぼんやり凝視」することで視えてくる。
視えたら「そこにあるもの」を注意深く発掘するのだ。
描くのではない。
技術においては呼吸法も重要だ。
確かに、気の遠くなるような作業が伴う。
だが「ぼんやり凝視」することで何かを発見できれば、
単純作業も苦にはならない。
発見は情熱を呼び起こすからだ。
Dream is Destiny [diary]
アクリル/木製パネル(80cm×100cm) 未完
子供の頃からよく夢を見る。
一晩に数えきれない程の夢を見ることも多々ある。
自分にとって夢はまさしくパラレルワールドであり、もう一つの人生の記憶だ。
現実の人生を変えてしまう夢に遭遇することもある。
例えば私の場合は「絵」だ。
子供の頃から絵を描くのは得意なほうだったが、画家を夢見たことはなかった。
どちらかというと私は子供の頃から夢も希望もなかった。
保育園の卒園式で、将来の夢を絵に描いて発表するとき、
他の子達はパイロットや医者や歌手などを夢見て絵描いていた。
私は子供心に、誰にも負ける気がしない描写力を駆使してタクシーの絵を描いた。
タクシーの運転手を夢見ていた訳ではない。
誰もが描くありきたりの夢を皮肉っただけだ。
(自他ともに認める自意識過剰な嫌なガキだった)
大人になって勤務先の同僚から「ホントに夢も希望も無さそうだよね」と
よく言われたものだ。
そんなことは自分が一番知っているし、そんな自分に酔いしれていた訳でもない。
そんなある日、自分が画家として個展を開いている夢をみた。
中学卒業してからは全く絵に興味なかったのに、なぜそんな夢を見たのか意味が分からない。
しかもその絵は自分の想像力を超えていた。
その想像力はいったい何処から来るのか?
自分には不思議でならなかったが、おそらく外部からの記憶だろうと深追いは避けた。
そのころから絵に興味を持ち始めたのは事実だが、自分で描く自信はなかった。
それ以前に描きたいという意欲もなかった。
実際に描くきっかけとなったのはアンディ・ウォーホールの原画を見たとき。
その絵を前にして壮絶な所有欲が湧き、思わず硬直した。
当然自分に買える代物ではない。...ならば贋作を作って部屋に飾ろう...
そんな不純な動機だった。
そして画材を揃えて独学を始めた。
習作を何枚か描くうちにウォーホールの贋作の件はどうでもよくなった。
それどころか仕事も辞めた。
絵を描いていると、
不思議と忘却の彼方へ追いやられた夢の記憶とリンクする。
今では横になって目をつぶるだけで夢をみる。
現実の思考力は崩壊しかかっているといってもよいだろう。
(犯罪者にはならないのでご心配なく)
(ペットをこよなく愛する穏やかな日々を送っておりますw)
夢をコントロールするか、特殊な覚醒状態を自在に操り、
無限の想像力を手に入れたい。
その進化を人類の後世へ残したい。
パラドックス [diary]
絵を描くことが好きなわけではない。
自分に「描きたい」なんて欲は無いに等しい。
だからだろうか、「絵を描くことが好きなんです」という人の絵には興味が無い。
今にも枯渇しそうな8割の所有欲と2割の顕示欲だけが、
かろうじて筆を持つ気にさせる(のかも知れない)。
「使命感」なんて勘違いな思い上がりはない。
リヒターの言うように「与えられた条件から始めるしかない」のだ。
たいてい自分を客観視したら、吐気がして風邪を引き起こしそうになる。
(その度に「これは良い兆候の始まりだぞ!」と思う)
自分に「描きたい」なんて欲は無いに等しい。
だからだろうか、「絵を描くことが好きなんです」という人の絵には興味が無い。
今にも枯渇しそうな8割の所有欲と2割の顕示欲だけが、
かろうじて筆を持つ気にさせる(のかも知れない)。
「使命感」なんて勘違いな思い上がりはない。
リヒターの言うように「与えられた条件から始めるしかない」のだ。
たいてい自分を客観視したら、吐気がして風邪を引き起こしそうになる。
(その度に「これは良い兆候の始まりだぞ!」と思う)
Mapping [diary]
アクリル/木製パネル(80cm×100cm)
未完
脳が肉体へ、正確な運動パターンを命令可能にするまで、
記憶のマッピング形成に、6〜8時間のタイムロスが生じる。
その間、脳はマッピング(パターン)作成中なので、
その運動を反復してはならない。
7月7日 [diary]
【プラトン(ウィキペディアより)】
芸術はイデアの模倣に過ぎない現実の事物をさらに模倣するもの、
さらには事物の模倣に過ぎないものに人の関心を向けさせるもの。
【ゲルハルト・リヒター(写真論/絵画論より)】
イデオロギーなし、宗教なし、信仰なし、意味なし、空想なし、発明なし、
創造性なし、希望なし.....。
自然のような絵画、生成として、発生として、そこにそのようにあるものとして、
目的をもたず、正当で論理的で、完全で理解不可能
(モーツァルト、シェーンベルグ、ベラスケス、バッハ、ラファエッロなどのように)。
我々は自然現象の原因をあるレベルまでは認識できる。
同じ原因が私を生じさせたのだし、その過程で私の絵画をも生じさせた。
私の絵画の直接の原因は、私の存在、私の幸福、私の痛みだ。
それらはあらゆる形式において強く表現され、表現されつくしたときには、
もはやこれらの直接的な原因は存在しなくなる。
POLO #1 [diary]
6月18日 夜
BIKE POLOなるスポーツを嗜む。
身体能力の高さに驚かされる。
因みに自分は相当ヘタレなので(笑)写真には出せません(笑)
ところで、BIKE POLOとは、こんなスポーツ↓
元々はイギリス発祥の馬に乗って行う競技。
(有名ブランド「POLO」のロゴマークにもなってます)
BIKE POLOなるスポーツを嗜む。
身体能力の高さに驚かされる。
因みに自分は相当ヘタレなので(笑)写真には出せません(笑)
ところで、BIKE POLOとは、こんなスポーツ↓
【YouTube】
http://www.youtube.com/watch?v=lh6C3uYwLUc&NR=1
元々はイギリス発祥の馬に乗って行う競技。
(有名ブランド「POLO」のロゴマークにもなってます)