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PRESENCE #3 [reflections]

アートの世界でも<幻視>というキーワードはよく出てくるが、
実際の幻視とは何の関係もなさそうな作品が多いのも事実だ。
幻視を経験したこともないような者が闇雲に絵を描いて、
『○○幻視』というタイトルを付けたところで、嘘は暴かれる。
幻視者から見れば、それは一目瞭然であり、まったく観る価値もない。

幻視の映像には、幻視者にしか共感できない共通性があるのではないかと私は思う。
(見ることに敏感な人であれば共感できる可能性はある)
私のいう幻視は「何となくその様に見える」という残像のような影ではなく、
色も形も構図も奥行きも、すべてハッキリと見える流動的な幻覚映像のことである。

何も幻視者が特別優れていると言っているわけではない。
実際、幻視は人間が生きていく上で必要のないものとして、
脳の記憶にすら残らないのである。

私が幻視にこだわって作品を制作し続けるのは、
<幻視力>の持つ可能性を信じているからである。

幻視よりも<幻視力>が重要なのだ。
つまり、脳がある状態を維持し、超越した審美眼で無意識的に視ることができる能力。

私は無意識の重要性を信じる。

無意識に身を任せ、無からの反動の波に乗り、超越した自己に接近する。
(自らの中の差異と向き合う)
秩序を通過し、生命力から生まれる正しい変容の振る舞いを待つ。

それら一連の動きを、朧げな記憶を頼りに具現化し、超越的自己による更なる変容を待つ。
そして、とてつもない”美”の存在を発見し、希望と絶望を同時に味わう。
私は、灰になった燃えカスを握りしめ、消える。

最終的に、私が描くのではない。

”それ”が描く。



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