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BORDERLINE (3) [BORDERLINE]

    ◆1話目から読む◆

 私は、パブの中でレコードをまわしているとき以外は、努めて明るく振る舞った。
 ケイはパブに来ると、いつも私の近くに座っていたが、前にも増して必要以上に私に気を使うようになった。私がタバコをくわえると必ずライターを差し出してくれたり、わざとらしく客の前で「この店はいつも選曲がいい」と言ってくれたりした。その度に私は、このパブのマスターであるノリオの女として、殆ど無償で働いている私の為に、ノリオに変わって気を配ってくれているのだと思うようにしていた。
「ケイちゃん、俺なんかに気を使わなくてもいいんだよ」と私は言った。
「わたし、アキラさんには全然気を使ってない。ただ、アキラさんといると幸せな気持ちになれるの」。ケイはそう言うと頬笑んだ。「それに、アキラさんって、頭の回転がものすごく速そう。ノリオさんなんか、ほとんど、アキラさんの手の平の上で転がされているみたい」
 その声の大きさからいって、間違いなくそれはノリオの耳にも届いており、明らかにノリオの顔色が一瞬変わったが、聞こえない振りをしたように見えた。聞き間違いだと思って気にしなかったのか、あるいは初めからケイにそう言うように自ら仕向けていたのか、私には判断がつかなかった。
 私はとりあえずケイに微笑んで見せた。ケイは私に頬笑み返した。
 次の日、ノリオは上機嫌に開店準備をしながら得意げに私に語った。「女って奴はたまにはビシッと怒んなきゃダメだね。昨日あんまりケイが調子こくもんだから、軽く殴ってやったんだよ。そんで、俺達もう終わりだな、って言ったら、なんて言ったと思う?。『いや、これで始まったんだと思うよ』だってさ。その後一発ヤって仲良く寝たよ」
 人間は馬鹿な方が幸せなんだろうなと思いつつも、「女を殴るのは良くないよ」と言っておいた。
「いいや。やっぱり甘やかしちゃダメだね」と自信満々にノリオが言い、今のこの男に何を言っても無駄だろう、と諦めた。
 ケイはその夜、普段と変わらず何事も無かった様にパブに来た。
 世間は給料日前の平日ということもあり、人通りは疎らで、店は暇だった。
 ノリオは「知り合いのパブのオープン日に顔出せなかったから、今のうちに行って挨拶してくるけど、もし客が来たら携帯に電話くれれば、すぐに戻ってくるから」と言ってケイを連れて行こうとした。
 ケイは「行きたくない」と言い放った。
「しょうがねぇなぁ」と言ってノリオは一人で店を出ていった。
 私とケイは初めて二人きりになった。私は何故か、借りてきた猫みたいになった。こういうシチュエーションは苦手だった。理由は分からないが、妙な自意識に襲われていた。
「私がこのパブに来るのは、アキラさんが居るからなんだよ」とケイが言った。
「そう言ってくれるのはケイちゃんだけだよ」。私はケイに翻弄されてはいけない、と警戒した。
「アキラさんに会える事が、一番の楽しみ。あの男一人のパブなら、来ない」
「よく分からないけど、ノリオとはうまくいっているんでしょ?」
「アイツ、昨日、私のこと殴ったのよ!。髪の毛掴まれて、さんざん引きずり回されて、わたし、本気で殺されるかと思った」。ケイは瞬きせずに私を見つめながら、そう言った。
「喧嘩したっていうのはノリオからも聞いてるよ。でも仲直りしたんでしょ?」
「あの男が何て言ったのかは知らないけど、その後も無理矢理されて、わたし、枕を濡らしながら寝たんだから。こんなことが許されると思う?」
 ケイは私との会話に慣れたのか、私の持ってる本来の人見知り体質を見抜いたのか、表情が劇的に柔らかくなり、明らかに人格が変貌した。声のトーンも少し低くなり、若干早口になった。私はそんなケイを見ているうちに息が詰まって苦しくなり、涙が溢れ出て止まらなくなった。
「アキラさん、どうしたの?。大丈夫?」
「大丈夫。ちょっと咽せただけ」。そのとき初めて気付いたのだが、ケイはアサコの雰囲気に似ていた。ケイの顔にアサコの面影が重なり、アサコを生き返えらせた。「それよりここだけの話、ケイちゃんはどうしたいの?」。私は精一杯力を振り絞って声に出した。
「わかんない。あんな男のことなんかどうでもいいけど、もしも別れたら、この店でこんな風にアキラさんに逢えなくなるから、その為なら我慢できる気もするし...」
 私はひどく混乱していた。「俺はもしかして今まで、ケイちゃんのことを誤解していたかも知れない。俺の所為で今まで何か不快な思いをさせたなら、ごめん」
「ううん。そんなこと一度も無かったよ」
「ところで、ケイちゃんにはノリオの他にも彼氏がいた筈だけど、その彼とはまだ続いてるんだよね?」私がそう訊くとケイは俯いた。「あ、ごめん。俺には関係ない話しだね」
 ケイは向き直って私を見ながら、「そんな『関係ない』だなんて言わないで」と言うと再び俯いた。「彼みたいな人は他にいない。どんな事があっても、いつも冷静で動じないし、私のことを自由に泳がせてくれるし、いつも何処か遠くで見守ってくれているような気がして安心するの。だから彼とは別れられない」
「俺にはよく理解できない」と私は言った。そして暫く沈黙が続いた。
「最近怖いの。ノリオが。いつか本当に殺されるんじゃないかって...。でも今はこのパブでアキラさんに逢うのが一番の幸せ。だからここを辞めないでね」

 1時間後にノリオが戻ってきた。ノリオは友人から車を借りてきたらしく、「アキラ君、今日は暇だから、ちょっと早いけど閉めようか。車で家まで送ってあげるよ」と言い、ケイに一人で先に家へ行くよう告げた。
「わたしも一緒に行く」とケイは言ったが、ノリオが借りてきた車は2シーターだった。
「やっぱり俺は歩いて帰るよ」と私は言った。
「大丈夫、うまく乗れば3人乗れるよ」。ノリオはそう言うと助手席のリクライニングシートを倒した。
 私は外から見えないように、寝そべるように低い体勢で助手席に座り、ケイは私の上に座った。私はなるべく彼女の体に手が触れないよう、自分の腕をシートの後方へ回していたのだが、背面騎乗位の体勢だけは避けられなかった。
「勃起してきた」と私は冗談を言った。
「ケイごときで勃起してるようじゃダメだなぁ」とノリオは言った。
 ところが暫くして本当に勃起してしまった。ケイは何事も無いように座っていた。ノリオは運転しながら一人で喋っていたが、私たちは殆ど無言だった。

 その後、私は色々考えた末、少しずつノリオから距離を置き、パブを辞めた。
     
      
 そして1年後、ノリオのパブを訪ねた。店の雰囲気は大分変わっていた。入り口の扉にはカッティングシートで大きく『DJ's BAR』と貼られてあって、激しくダサかった。中に入ると、ノリオが一人でレコードを回していた。客は誰も居なかった。ノリオは、私が辞めた後に学生DJをノーギャラで雇い、自らもレコードを回していると話してくれたが、スピーカーから出ている音は窮屈で耳障りだった。そして以前と比べて弱々しく見えるノリオが言った。
「オレ、ケイとは別れたんだ。もう一度ブスからやり直すよ」
 私は適当に相槌を打ち、一杯だけ飲み、代金を払って店を出た。

 アサコが死んで以来、私の心が晴れることはなかった。
 他人との間に障壁があるというか、病的なフィルターに感覚が浸食されているというか、いつも混乱していた。いつしか私は夜を好むようになった。夜は私の気を楽にさせ、活動し易かった。

 ノリオのパブを訪ねた次の日、私はケイの勤めるデパートへ行った。
 ケイは私を見ると一瞬驚いたが、すぐに笑顔を作って見せてくれた。
「うれしい!。どうしたの?。もうアキラさんには会えないかと思ってた」。私は素直に、そんな彼女のリアクションが嬉しかった。
「どうしてるのかと思って...。気になったから...。よかったら今度一緒に晩飯でも...」
「またそんな社交辞令言っちゃって。電話番号も知らないくせに」
 昼間みるケイは私の想像以上に輝いていた。そんな中私は、デパートの化粧品売り場という場違いな眩しさに目がくらみ、ぼんやりとした目眩に襲われていた。
「明後日なら大丈夫だから、必ず電話してね」。ケイは小声で頼み込むように電話番号を書いたメモを差し出した。
 さんざん迷ったあげく、二日後、私はケイに電話した。
「アキラさん、ありがとう。もしもアキラさんから電話が来なかったらどうしよう...、ってこの二日間、そんな事ばかり考えてた」
 そして私達は待ち合わせ場所を決めて、夜に会うことにした。

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