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BORDERLINE (5) [BORDERLINE]

    ◆1話目から読む◆

 私とケイはタクシーに乗っている間、殆ど無言だった。そして海沿いのラブホテルに着いた。
「ここ?」。ケイは寝起きの様な視線を私に向けた。
「びっくりした?。嫌なら引き返してもいいよ?。でもここには俺の理想の景色があって、ケイちゃんにも見せてあげたかったんだ。できれば二人でその空間を共有できたらと思って。ただそれだけの事だよ。いつか、誰かとここへ来るといいよ。すみません運転手さん...」。私は引き返すことにした。
「あっ、待って。誰も行かないだなんて言ってないでしょ?。そこへ連れてって」。そう言ってケイが私の腕を掴んだとき、香水の香りがした。
 私は以前ノリオから、ケイはラブホテルが好き、という話を聞いていた。

 実は私は、そのホテルの評判は知っていても、中に入った事は無かった。
 海沿いの崖上にそびえ立つホテルの部屋は割と広く、調度品も上品だった。薄らとオレンジ色に灯る足元灯のあかりが優しく、L字型の大きな窓からは、澄み渡る夜の海に浮かぶ遠くの船のあかりと、ゆったりとした灯台のあかりを眺めることができた。そして微かな音量でジャズのバラードが流れていた。

「綺麗だね。こんな部屋に住みたい。こんな部屋に住んで好きな人のために編み物とかしたい」
 私はアサコが編み物をしていた時の姿を思い出した。もしも今ここに居るのがアサコだったら、まず最初に風呂に入ろうとするだろうな、と思った。
「アキラさん?」。バスルームからケイの声が聞こえて来た。「わたし、お風呂に入りたいんだけど、入ってもいい?」
 ケイは入り口からちょこんと顔を出して、「絶対に覗かないでね」と言った。

 ケイが風呂に入っている間、私は遠くの灯りをぼんやりと見つめていた。もうマリファナの効果は切れかかっていた。私の眼前に広がる光景は、暖かく優しい世界から、寒く冷たく曖昧な世界へ戻ろうとしていた。私にそれを止めることは出来ない。普通の人が当たり前に感じる暖かさや安らぎを、私はマリファナでしか得ることが出来ないのだ。

「何してるのぉ?」。背中越しにケイの声が聞こえた。振り返るとケイはバスタオル1枚だけの姿で頭にタオルを巻いていた。一瞬のうちに私はまた暖かい気持ちになった。まだマリファナが効いていた。
「気持ちよかった?」と私はケイに訊いた。
「うん。アキラさんも入ったら?。気持ちがスッキリするよ」
「そうだね。俺も入ろう」
 窓ガラスに写った私の虚ろな表情を、ケイに見られてないことを祈ると同時に、自己嫌悪へ陥る不安に襲われた。

 勢いよく温水が出るシャワーを浴びていると、まるで真夏の熱帯の、スコールの中に居るような気分が味わえた。そしてバスルームに広がる湯気が心地良く、私の精神状態は急速に安定し始めた。そして鏡の中の自分の全身がとても逞しく、誇らしく思えた。それはまだマリファナが効いていた所為もある。

「ふぅ...。スッキリ」と私は言った。
「でしょぅ?。だからお風呂って大好き」とケイが言った。
 私は冷蔵庫からビールを取り出し、グラスに半分注いでケイに手渡した。ケイは微笑みながら「カンパーイ」と言ってグラスを私に向けた。私は自分のビール缶をケイのグラスに軽く当てて乾杯し、ケイの座るソファーには座らずに、床の上に座った。
「アキラさん。そんなところに座らないで、ここに座んなよ」。そう言ってケイはソファーをパンパンと叩いた。私は立ち上がってケイの隣に座り直した。
「前にも此処に来た事あるんでしょ?。誰と来たのぉ?」。ケイは横目で私を覗き込んだ。
「此処に来たのは初めてだよ」。それを聞いてケイは、フフっと鼻で笑った。

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BORDERLINE (4) [BORDERLINE]

    ◆1話目から読む◆

 ケイと会う約束はしたものの、女の子とお食事、という生々しさが果たして自分という人間に身分相応なのかどうか、私は疑っていた。
 自分を縛る目に見えない鎖から自身を解き放つ為には、国内非合法な解決方法であっても、マリファナでハイにならざるを得なかった。普段から混乱している私にとってのハイとは、ハイテンションではなく、一般的に正常な、平常心に近い状態かも知れない。
 ところで私の中のケイのイメージは、ロングヘアーで、ゆるめの巻き髪で、ミニスカートスーツを着ていて、些細な事で大口を開けて笑う、といった感じだった。

 待ち合わせ場所に現れたケイは、大きくイメージチェンジしていた。髪はバッサリとショートボブにし、エスニックなロングワンピースを着て、恥ずかしそうにふらふらと歩いていた。
 私の目にはそんなケイがどこか華奢に見えて、自分の中のケイのイメージとの差異にも折合いがつかず、テンションが落ちると同時に軽い混乱を覚えた。もしかするとケイは、穴の開いたジーンズにTシャツというグランジな私に合わせてくれたのかも知れない。ただそれだけの事だ。ただそれだけの事実が私を攻撃していた。
「おなか減ってる?」と私はケイに第一声を投げかけた。
 女性の扱いに長けている人であれば、その髪似合ってるね、とか、その服可愛いね、などと褒めてあげたり、俺たちお似合いだね的なジョークも、この場合は許されるのかも知れないし、それ以前に、満面の笑顔で出迎えて、優しくエスコートする事で女性を安心させたり出来るのだろうが、当時の私に、そんな高貴な芸当は全く持ち合わせてなく、それどころか、ケイに対して笑顔すら作る余裕もなかった。
「減ってると言えばぁ、減ってるけど、減ってないと言えばぁ、減ってない」とケイが答えた。
「じゃあ、観たい映画があるんだけど、先に映画を観て、その後ご飯食べに行こうか」。そう言うとケイは私を見て、微笑んで頷いた。
「髪切っちゃったんだね。長い方が良かったのに...」
「ええ?! 。ショック...」

 それでも私は幾分自分を保っていられた。二人を包み込む独特な宇宙へケイを案内している。そんな揺るぎなさがケイを安心させている。そう自分勝手に思い込んでいた。
 映画館の入っているビルのエレベーターを降りて、蛍光灯の薄暗い廊下を暫く歩いていると、降りる階を間違えた事に気付いて、「あれっ?。ここは何処?」と私は言った。ケイは私の腕を叩き、
「ちょっと!」と言って笑った。
「今から映画観るんだって事すら忘れてた!」。私は完全に自失していた。
 そして私たちは『トレイン・スポッティング』という映画を観た。

「この映画はアキラさんと一緒に見るべき映画だったわ」。観終わった後にケイはそう言った。
 12月の繁華街は多くの人で賑わい、普段から早歩きで歩く私から逸れないよう、ケイは私の腕を掴んで歩いていた。私は何故か人ごみに紛れて、犬の散歩をしているような気分だった。

「おお!。アキラ!。元気だったか?」
「はい。なんとか生きてました」
「今お前、何やってんの?」
「今月新しくオープンしたクラブで、またDJやってます」
「そっかぁ。とりあえず良かったなぁ。そういえば今度、ラリー・ハードが来るんだけど、お前、チケット買わない?」
「アキラさん、私も買うから一緒に行こう?」。ケイが話に割って入った。
「アキラの彼女?」。先輩はケイを指差した。
「いや、彼女では...」
「じゃ、チケット出来たら連絡すっから。とりあえず今日はゆっくりしてけよ」。先輩はそう言うと厨房へ戻って行った。
 私たちはビールジョッキを持って乾杯した。
「アキラさん突然ノリオのパブを辞めちゃうんだもん。わたし、本当にどうしようって思ったんだから。何も言わないで辞めちゃうなんて冷たすぎない?」
「ごめん。でも俺なりに色々考えた結果なんだ」。本当のところ旨く答えられる理由なんて無かった。でもケイは理由を訊かずにいてくれた。
「でも嬉しい!。本当にアキラさんよね?。本当にアキラさんなんだよね?」
「ああ俺だよ。こんな風に二人で逢うのは不思議な感じだけど...」
 ケイはホッとした様に笑顔を見せながら俯いた。「本当。あのパブにいた時はノリオが居たから、こんな風に会えるなんて考えられなかったよね。でもいつか、こんな風に会えたらって、いつも思ってた」
 確かにケイは私のことが好きだったのかも知れない。でもケイが本当に好きなのは、あのパブでただのDJとして、殆どの出来事に対して、それどころかケイの存在に対してすらも無関心な私なのであって、今ここにいるような私ではない。
「パブを辞めた後、ケイちゃんのことが気にはなってたんだ。ノリオに殴られたりしてないだろうか、とか...。それで先週、ノリオのパブへ行ってきた。ノリオと別れたんだって?」
「もう大変だったんだから。アキラさんは突然居なくなっちゃうし。私にとってはもうあのパブへ行く理由も無くなった訳だし、ノリオに会う必要も無くなったんだけど、あの男ストーカーみたいにしつこく付き纏うようになって...」そこまで言うとケイは大きく溜息をついた。 「わたし、それから好きな人ができたの。クラブでナンパされてその人と知り合ったんだけど、その時も近くでノリオが私のこと見張ってて、気味悪いっていうよりも怖かった。だからその人に相談したの。そしたらその人がノリオに言ってくれたの。『もう彼女に近づくな』って。『今後彼女に何か話があるなら、代わりに俺が聞くから』って言って、自分の電話番号を紙に書いてノリオに渡してくれたの。それ以来その人のことが凄く好きになって...」
「ノリオは黙ってその紙を受け取ったの?」。私は話しを遮るように訊いた。
「うん。喧嘩しても勝てないと思ったんじゃない?」
「なんだ、そうだったのかぁ。よかったよかった。それ聞いて安心したよ」

 俺はいったい何がしたいんだろう。ケイを守りたいのか?。ケイと寝たいのか?。セックスがしたいのか?
『ケイちゃんのことが気にはなってたんだ。ノリオに殴られたりしてないだろうか、とか...。』って、俺に何が出来るというんだ?。俺に出来る事なんてせいぜい、俺なりに色々考えた結果として、姿を消す事くらいなもんだろう。所詮その程度の男。
 少なくともケイは、勇気あるその男の行動によってノリオの脅威から守られた。それは強烈な経験として彼女の歴史に刻まれた。ケイの中で起こったパラダイムシフトは、彼女にとっての男の存在価値を決定づけた。だからもう以前の様にはいかない。いつかケイは、『男のランク付け』の真ん中から下の方に俺の事を位置づけるだろう。
 そもそも俺たちの関係って何なんだ?

「でも失恋したの。もともとその人には彼女が居て、その事も彼の口から直接聞いてて知ってたんだけど、私は相手の女に負けたくなかったから、必死になって頑張ったの。わたし、人を好きになると全力で尽くすほうだから...」。ケイはビールを飲み干し、更に話し続けた。
「何もかも捨ててその人と一緒になりたいとも思った。生理が3ヶ月遅れた時は本気で子供が出来たと思ったし...、そう思わざるを得ない事もあったしね。その事を彼に言ったら、本気で喜んでくれたのよ?。そして、『結婚しよう』とまで言ってくれたんだよ?」
 ケイの語尾が上がる度に、私は自分の無力さを恥じ、自我の輪郭が歪んだ。
「でも結局、子供なんて出来てなくて、その人、元カノのところへ戻ってしまって、あっという間にそのコと結婚しちゃったぁ...」
「うわぁっ!。それは辛いわぁ」。もはや私は、自分が誰なのかも分からない。
「ねぇ、アキラさん聞いてぇ。わたし、本当に身も心もボロボロになってたんだよ?。あそこまで男に泣かされた事なんて、今まで一度も無かったから。そんな時にアキラさんが来たの。だから、すっごく嬉しかったぁ。本当にアキラさんのことが、スーパーマンみたいに見えたよ」。 ケイはだいぶ酔いが回ってきた様だった。
「これから一緒に行きたい所があるんだけど、よかったら行かない?。でも無理には誘わないから。キツかったら気軽に断ってくれてもいいから」と私は言った。
「ううん、大丈夫。行きたい」とケイは答えた。

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